第2話:管理された日常 (2)
薬棚の整理は退屈な仕事だ。乾いた薬草を種類ごとに揃え、瓶を元の位置に戻す。手だけ動かしていればいいから、耳のほうが暇になる。だからその朝、衝立の向こうの声を拾ってしまった。
「やっぱり、外れた予言の話が増えてるんだ。雨だの霧だの、ちょっとしたことだけどね」
師匠だ。応じたのは聞き慣れない声――隣村の薬師らしい。
「うちもです。先月、井戸の補修日が二度ずれました」
「最近、近隣の集落から相談が増えてね。皆、自分の読み違えだと思いたがるが――二つや三つの村でなら、まあ」
続きは、なかった。湯飲みを置く音がひとつ。それきり衝立の向こうは黙り込んだ。
(うちの村だけの話じゃないのか)
隣で、セリナの手が止まっていた。手帳を開きかけたまま、ペン先が紙に触れる寸前で宙に浮いている。
「兄さん。ちょっと聞こえた?」
「うん」
「……気のせいよね」
セリナは手帳を閉じて、懐に戻した。書いてしまえば、それが現実になる。今日はそれを、書きたくないらしい。
◇
昼は、いつもの木陰だった。
包みを開いた瞬間、僕は思わず眉を寄せた。パンの焼き加減、干し肉の厚み、漬けた野菜の量――どれも、今朝の僕の体温と昨晩の眠りの浅さから逆算したような精度で並んでいる。肉が昨日より一切れ多いのは、たぶん薪割りで腕を使ったからだ。そこまで見ているのか、この妹は。
「……セリナ、聞いていいか」
「何」
「僕の弁当、いつから治療院の調合書になったんだ」
膝の上で自分の包みを広げながら、セリナがちらりとこちらを見た。
「調合書じゃないわ。記録に基づいた食事の管理よ」
「それを世間では調合書って呼ぶんだ」
「世間は好きに呼べばいいわ。私は兄さんの体調を把握してるだけ」
いつもの調子だ。まずくはない。滋養のことだけ考えれば、むしろ無駄がない。ただ、パンの端が少し焦げている。彩りより栄養、栄養より数字。そっちに気を取られると、火加減がおろそかになる。そういうところが、いっそセリナらしかった。
焦げた端を千切ろうとして、鼻先を匂いがかすめた。いつもと違う。乾いた薬草のような、それでいて少し甘い。
「……これ、香草を変えたのか」
セリナの手が、止まった。パンを持つ指に、一拍だけ力がこもる。
「なんで急に――」
「試作よ、試作。治療院で香草が余ってて、組み合わせを変えてみただけ」
早口だった。視線は自分の弁当に落ちている。在庫の話をするときのセリナは、もっと淡々としているはずだ。それに、頬が少し赤い。
(在庫整理のために弁当の味まで変える人間が、どこにいる)
喉まで出かかった言葉を、干し肉と一緒に飲み込んだ。悪くない。というより、前より美味い。けれど口にした途端、次から元に戻される。褒めると引っ込めるのだ、この妹は。
「それより」
セリナの声が、いつもの硬さを取り戻した。
「兄さん、最近やたら空を見上げてるの、気づいてる?」
「……は?」
「先週は一日に平均四回。今週に入ってからは十一回。異常値よ」
干し肉を噛む顎が止まった。
(数えてたのか。しかも小数点まで付けて)
数えているだろうとは思っていた。セリナはそういう人間だ。ただ、倍率まで弾き出してくるのは予想の外だった。
「空くらい、見て何が悪い」
「悪いなんて言ってないわ。傾向の話をしてるの」
セリナの目が、こちらを射る。けれど声のほうは、さっきの数字の硬さと少しだけ違っていた。
「兄さんが空を見るのは、たいてい何か考え込んでるとき。それが急に増えたなら――」
言いかけて、セリナはパンの焦げた端をぱきりと折った。続きは、口にしない。折った欠片を放り込んで、まずそうに噛んでいる。焦げは自分が食べる。昔からそうだ。
僕は膝に目を落とした。焦げた端を、指先で転がす。
理由なら、あった。昨日の昼過ぎ、村を横切っていった護り手の一団。隊列の先頭の青年が、手のひらに小さな器具を載せていた。探知の器具、というやつだ。あれの光がちらついたのは――こちらの方角だった気がする。
すれ違うあいだ、青年は村人の顔を見るより先に、器具の指針を読んでいた。顔を確かめたのは、針が落ち着いてからだ。
(あの器具、僕の書に反応しかけてなかったか)
確証はない。見間違いかもしれない。仮に反応したとして、この変わり者の予言書が引っかかっただけだろう。僕の書が妙なのは村じゃ周知の話だ。護り手にとっても、その程度のはず。
――そう思おうとして、うまくいかない。
護り手は「歪み」を追う。もし僕の書がその「歪み」に数えられるなら、僕がこの村にいること自体が、厄介の種になる。セリナが毎朝通ってきて、弁当を詰めて、手帳に対策を書いて。その全部が、僕のせいで。
パンの味が少し遠くなった。
「兄さん」
セリナの声から、さっきの管理の硬さは抜けていた。
「焦げたとこばっかり食べてないで、真ん中も食べなさい。そっちのほうが滋養があるんだから」
見透かされたわけじゃない。たぶん。ただ、僕の手が止まったのに気づいただけだ。それでもわざわざ、つまらないことを言って手を動かさせる。そのやり方が、いつもの小言からほんの少しだけ外れていて。
「……うん」
素直に頷いたのは、真ん中が本当に美味かったからだ。新しい香草が、焦げの苦味をうまく隠している。
――それだけの理由だ。たぶん。
もう一口齧りながら、つい空を見上げそうになって、やめた。今日で十二回目になるのは、なんだか癪だった。
そのとき、音がひとつ、消えた。
鶏だ。さっきまで村外れで間延びした声を上げていた鶏が、ぴたりと黙っている。代わりに、風車の軋みだけがやけに大きい。葉の擦れる音。それから――何もない。
(静かだ)
いや、違う。静かなんじゃない。
――待っている音だ。
何かが来る前の、息を詰めたような気配。草の匂いも風の温さも変わらないのに、村が丸ごと身構えたみたいだった。気づけば、僕の指がパンの欠片を握りつぶしていた。
「兄さん?」
セリナが首を傾げる。彼女にはまだ聞こえていない。数字に載らない種類の変化は、セリナの網をすり抜ける。
遠くで、硬い音がした。
金属が金属に触れる、乾いた響き。鎧の留め具が、歩調に合わせてぶつかっている。一度きりじゃない。等間隔だ。街道の向こう、丘の稜線に近いあたりから。
僕は弁当を膝に置いた。
「……セリナ」
「何?」
「午後の畝仕事、少し遅れるかもしれない」
セリナの目が細くなった。何か言いかけて、僕の顔を見て、口を閉じる。それから自分も耳を澄ませたらしい。数秒、間があった。
風車が軋む。鶏は、まだ鳴かない。
「……聞こえた?」
「聞こえた」
セリナの声から、統計が消えていた。
風が木陰を揺らす。足の裏に、微かな震え。気のせいじゃない。地面のほうが、先に知っていた。土の下を、足音が来る。
「兄さん」
セリナの声は、低かった。
「今日、予言書は懐の奥に。聞かれても、自分からは見せないで」
「……ああ」
なぜそこまで強く言うのか、たぶんセリナ自身にも説明できない。それでも、指示に迷いはなかった。僕は素直に頷いて、書を上着の内側に押し込んだ。
(あの器具、本当に僕の書に反応するのか)
確証はない。ただの直感だ。それでも、一度浮かんでしまった疑いは、そう簡単には消えてくれない。
焦げたパンの、最後の欠片を口に入れる。噛み砕く音だけがやけに大きく響いた。




