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第1話:管理された日常 (1)

予言書がある。


それを開けば、この先に何が起きるか分かる。敵がどこから来るか。罠がどこに仕掛けてあるか。次の一手を、その次の一手を、書は余さず教えてくれる。


僕はこの書を頼りに、長い旅路を越えてきた。灼けた砂漠を渡り、凍てつく山嶺を踏み越え、幾つもの町で剣を交わし、幾つもの夜を一人で越えた。書がなければ百度は死んでいた。示された未来を信じて、ただ走ってきた。


そして今、最後の戦場にいる。


眼前にそびえるのは、城塞の成れの果て。崩れた尖塔の影から、それが身を起こす。瓦礫が雨のように降り、地鳴りが足を打つ。炎を纏った巨躯が、天を衝いて立ち上がった。


怖い。足が震える。それでも書を開く。指先だけは迷わない。


『――右腕が先に来る。三歩退け。次は左。屈め』


文字を目が拾うより速く、身体が動いた。灼熱の拳が頭上を薙ぐ。髪の焦げる匂い。地を転がり、跳ね起き、また書に目を落とす。


『懐に入れ。胸の核が露出する。今だ』


駆けた。炎の壁を抜ける一瞬、肌が焼ける。それでも止まらない。書が「今だ」と言っている。核が目の前だ。手を伸ばせば、届く。


あと一歩。


次の頁を繰る。勝利への最後の一手が、そこに――


『南の井戸端で足を滑らせる』


……は?


炎は渦を巻いている。核はまだ目の前だ。なのに書は、井戸端の話をしている。次の行。


『昼餉は豆と干し肉の煮込み。塩加減に注意すること』


ふざけるな。戻れ。さっきの続きを――


そこで、頁の端が湿っているのに気づいた。水だ。どこから。


染みが広がっていく。文字が一つ、また一つ、滲んで崩れていくのを、僕はただ見ていた。さっきまで命を繋いでいた記述が、水の底に沈む。


待ってくれ。まだ読んでいない。この先が――


冷たさが、頬を伝う。


世界ごと、溶けた。





「おはよう、兄さん。今月12回目よ」


目を開けると天井があった。木目の走った、見慣れた天井。その手前でセリナが僕を見下ろしている。空になった洗い桶を片手に、呆れとも諦めともつかない目で。


顔じゅうが濡れていた。前髪の先から滴が落ちて、こめかみを伝う。夢の最後に頬を伝った冷たさの正体は、これだ。


「……もうちょっとだったのに」


「何が?」


「いい夢」


「どうせまたでしょ」


また。そう、いつも同じだ。予言書が「冒険の指針」として使われている世界の夢。そこでは僕の書も、ちゃんと先を教えてくれる。次の敵、次の道、次の勝利。いつだってあと一歩で崩れるけれど、あの一瞬だけは――書が味方だった。


現実の僕の予言書は、井戸端で転ぶことを教えてくれる。しかも避けなければ、本当に転ぶ。


「はい、今日の分」


セリナが手帳を開いた。角のほつれた、インク染みだらけの頁。僕の予言書を毎朝読んで、面倒な顛末を避ける段取りをまとめたものだ。


血の繋がった妹じゃない。物心ついた頃にはもう隣にいて、いつの間にか「兄さん」と呼ぶようになった、妹分。


一行目。『南の井戸端で足を滑らせる → 北回りルート。井戸に近づかない』


夢の中でこの一行が割り込んできたとき、僕は本気で腹を立てた。ふざけるな、と。でも現実では、これが一日の最初の関門で、セリナの対策がなければ、たぶん本当に転ぶ。


身を起こすと、枕元に麻のシャツが畳んで置いてあった。通気のいいやつだ。


「午後から湿った風が入るの。先に替えておいて」


いつから準備していたのか、聞いたことはない。聞けば「当然でしょ」と返ってくると分かっているから、聞かない。


手帳の欄外に、小さな文字が添えてあった。


『甘い焼き菓子一つ。在庫整理のため』


……在庫整理ね。


口には出さない。出したら別の理屈が飛んでくる。焼き菓子を一個だけ僕に回す道理を、セリナは五分くらいかけて説明するだろう。聞いてみたい気もするけれど、まあ、今はいい。


「復唱して」


「北回り。井戸に近づかない」


「よろしい」


出ていく足音は、いつも通りの間隔で、迷いのない歩幅だった。来たときと同じ音。この人はたぶん、歩き方まで管理している。


シャツに袖を通して、夢の残りかすを振り払う。城塞も炎の巨人もない。あるのは井戸端の危険と、焼き菓子と、セリナの手帳だ。


通りに出た。


外は冷たい。ようやく夢の熱を、肌から追い出せた気がした。


向こうの井戸でトムが水を汲んでいた。


「今日は午前中に洗い物を済ませろって書いてあったからさ」


その隣でリーナが干し物を北側へ移している。「午後は風向きが変わるから」。誰も迷っていない。書に記述があれば、その通りに動く。それだけだ。


夢の中の予言書は、冒険の指針だった。

村人の予言書は、暮らしの指針だ。

僕の予言書は――避けるべき落とし穴の一覧。


どれが一番地味かなんて、答えるまでもない。


畝の向こうから、しわだらけの手が振られた。


「エルちゃん、精が出るねぇ」


マーサだ。鍬を手に、のんびり笑っている。


「マーサさんこそ。でも少し休んだ方がいいよ、顔が赤い」


「大丈夫さ。『穏やかな午後を過ごす』って書いてあるからね」


そう言って、腰に下げた書をぽん、と叩く。あとに続く台詞は、村じゅうが諳んじている。


「迷ったら予言を見なさい。答えは全部そこにあるんだから」


信じ切った瞳だった。去年、マーサはこの書に従って畑の場所を変えた。


「水捌けが悪くてねぇ、半分やられちゃったよ。でもまあ、加護の試練だったんだろうね」


笑って片づける。加護――この村では予言書の導きをそう呼ぶ。外れたなら、読んだ側の落ち度。書はいつも正しい。


(いつか僕も、あんなふうに信じて、その通りに動けるようになるんだろうか)


……無理だな、たぶん。書がまともになったところで、僕が予定通りに動ける気がしない。


考えを振り払うように、マーサの鍬を借りて一振りした。


ふと、頬に冷たいものが落ちた。


一滴、二滴。それからざあっと、通り雨が畑を駆け抜けていく。快晴と書かれた日の、その最中に。


「おやまぁ、珍しいね。私が読み方を間違えたかしら」


マーサが空を見上げて首を傾げる。いつもそうだ。外れると、まず自分を疑う。書そのものを疑う者は、誰もいない。


井戸端のトムが洗い物を屋根の下へ運びながら、独り言みたいに言った。


「最近、こういうの多くないか。先月もあったよな」


干し物を取り込むリーナが相槌を打つ。


「うちのも先週の朝、霧が出るって書いてなかったのに出たわ。日付の見間違いだと思ってたけど」


それきり二人は黙って、手元に戻っていった。誰かが言葉を継ぐでもない。なんとなく流れて、消えていく話題だ。


懐の書に触れる。


(書が間違っているんじゃないのか)


口には出さない。言ったところで「またエルちゃんの変わり者発言だ」と笑われて終いだ。


遠ざかる雨雲を見送る。頬に残った冷たさを、僕は拭わずにいた。


雨が上がった広場の隅で、井戸の縁に腰掛けた爺さんが、誰にともなく呟いた。


「加護が薄くなったかね」


半分は冗談、半分は本気の声だった。隣の老婆が「やめなさいよ、縁起でもない」と笑い飛ばす。爺さんも「そりゃそうだ」と肩をすくめて、それで終わり。


僕だけが、その台詞を引きずっていた。


あの雨は、書にない。

読み違えでも、忘れていたわけでもない。

何かが、少しだけずれ始めている。


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