第27話:白紙の先へ
「同行を申請する」
そう願い出た少女に、僕は静かに視線を返した。まだ名を持たない、光の衣をまとった顕現体。
「……理由は?」
「記録で足りないものがあるなら、記憶を得るしかない。それには、外に出るしかない」
「……ただし、塔を離れれば本体との繋がりは薄れる。力も落ちる」
「……理解できるかは分からない。しかし――」
光柱が揺れた。次の言葉が合理の帰結ではなく選択なのだと、少女自身が気づきかけている。
「――やってみたい」
裁定の口調が、崩れた一言だった。
セリナが呆れたように息を吐いた。
「……それ、ただ一緒に来たいって言えばいいのに」
「……? 同じ意味ではないか」
「全然違うわよ。――まあいいわ。ついてきなさい、次女。あなたが私を『お姉様』って呼んだの。なら順番で言えば、あなたが次女よ」
「……私がこの塔に在った年月は数百年に及ぶ。年齢的には――」
「次女」
一拍。光柱が微かに揺れ、少女が頷いた。
「……了解した。序列『次女』として受け入れる」
セリナが彼女を管理の枠に組み込んだ。でも、これは支配じゃない。
(家族が一人、増えたみたいだ。……いや、増えたんだ)
フィンが肩をすくめた。
「ああもういい、堅い話は。――アリアでいいだろう。響きがいい」
「……アリア」
自分の名をなぞる声は、まだ硬い。光柱がぽつんと明滅した。
「アリア。いい名前だ」
セリナが振り向いた。
「言っておくけど、兄さんの管理は私の管轄だから。そこは侵さないこと。いい?」
「……観察は許されるか」
「黙ってするなら」
アリアの声が空間に広がった。
「機兵は――止まる。本体が自ら判断した。回廊の守りに注いでいた力を、情報の読み解きに振り替えると。私が命じたのではない。……通れるようになった」
回廊の方から、足音が二つ。一つは速く正確で、もう一つは重く堅実だった。
ナディアとヴィンセントが星の間に入ってきた。ナディアの左肩に包帯。ヴィンセントの盾に、深い亀裂。それでも二人とも、立っている。
「……辿り着いたか。エル・クレイン」
「辿り着いた。――約束通り」
ヴィンセントの視線がアリアに向いた。整いすぎた容姿と、光の衣。一瞬の沈黙のあと、彼は姿勢を正した。
「……私は護り手だ。貴殿を道具として扱ってきた者の一人だ。これから――違う形を探す」
ナディアが静かに言った。
「対話を求めているなら――理念派の継承者として、応じよう」
アリアが全員を見回した。光柱の揺れが、少し速くなる。
「……五人。こんなに多くの人間と同時に話すのは、初めてだ」
フィンが笑った。
「慣れるよ。騒がしいけどな」
◇
六人で螺旋回廊を降りはじめた。
機兵は完全に止まっていた。剣を構えた姿、槍を振り上げた姿――ついさっきまでの激闘の姿勢のまま、壁際に佇んでいる。瞳の光は、消えていた。
ナディアが一体の前で足を止めた。左肩の包帯に手を当て、止まった機兵を見上げる。
「……この個体に、左肩をやられた。なかなかの一撃だった」
ヴィンセントが亀裂の盾を軽く叩いた。
「私の盾は、こちらの個体だ」
(こいつらは僕たちを排除しようとした。でも、それは「守る」ためだった。命令通りに守ろうとして、結果的に閉じ込めていた。……グレゴールさんと、同じだ)
「兄さん、立ち止まらないで。感傷は外に出てからにして」
「……はいはい」
降りるほどに、壁の光が変わっていくのが見えた。かつての、防衛の赤い光じゃない。温かい、淡い光。それが壁面をゆっくり流れていくのを、僕は横目で追った。
アリアが壁に手を触れながら歩いている。
「……本体が、情報を読み解いている。こんなに多くの外部情報を受け取るのは……初めてだ」
セリナがナディアの歩き方に目を向けた。
「ナディア、左肩どう?」
「この程度は問題ない」
「私が問題あると言ったら、問題あるの。診察は後。まず外に出る」
(管理者の顔だ。でも、アリアの時と同じ――知ろうとしているんだ。相手を)
◇
聖塔の正面広場に出た。早朝の冷たい空気が肌を撫でる。石畳が、朝露に濡れていた。
広場の端に、グレゴールがいた。
護衛もなく、椅子もなく、ただ立っている。塔を見上げていた。背筋は伸び、身なりに隙はない。けれどその目は――何かを見ることをやめた目だった。
「……塔の防衛機兵が停止した。壁面の記述が動きはじめた。数百年変わらなかった聖塔が――一晩で変わった」
振り向いたグレゴールの声に、疲労の色はない。いつもと同じ威厳。ただ、目だけが違った。
「……君たちが、中に入ったのか」
「ええ。中央予言書と――対話しました」
「対話」
その言葉を、なぞるように繰り返す。表情は動かない。
「予言書は道具だ。対話する相手ではない。私は三十年、そう信じて管理してきた」
「……あなたの三十年を否定するつもりはありません。でも――予言書は、応えてくれました。僕が問いかけたら、応えてくれたんです」
沈黙。グレゴールの視線がアリアに向いた。
「……顕現体か」
アリアは真っ直ぐにグレゴールを見た。
「……グレゴール。あなたは私に情報を遮断し続けた。その結果、私はこの三十年、正しい判断ができなかった」
グレゴールの手が、微かに動いた。頁を捲る癖の位置を、指が探す。けれど、そこにもう予言書はない。爪を切りすぎた指先が、宙で止まった。表情は、崩れない。
ナディアが一歩前に出た。
「……間違っていた。理念派の継承者として、そう言わねばならない」
声に迷いはなかった。それでも、続く言葉は断罪ではなかった。
「しかし――あなたの出発点は、私たちと同じだった。予言書と人間の、正しい関係を追い求めた。その志は……理念派と、変わらない」
「……」
「グレゴールさん。予言書が更新を始めています。あなたが確定だと思っていた未来は――確定じゃなかったかもしれない」
グレゴールの目が、一瞬だけ何かを見た。三十年前に失われた光の、残滓。しかしすぐに閉じる。長すぎた習慣が、希望を受け入れることを拒んでいた。
「……行くがいい。私は――ここで見届ける」
ヴィンセントが声を出した。
「グレゴール殿。私は護り手として、あなたの判断に従い続けた。その責任は、私にもある」
一呼吸。
「しかし、今は――自分で判断する。私は、彼らと行く」
グレゴールはヴィンセントを見た。長い視線だった。そして――微かに、頷いた。それが許可なのか、諦めなのか、あるいは。
(グレゴールさんは変わらない。少なくとも、今は。でも――予言書が更新を続ければ、世界は変わっていく。その変化のどこかで、いつか気づく日が来るかもしれない。来ないかもしれない。でも、その可能性を、閉じないでおきたい)
六人がグレゴールの前を通り過ぎた。アリアだけが一瞬立ち止まり、振り返った。
「……グレゴール。私はあなたを恨んでいない。あなたは――知らなかっただけだ。私も、長い間、知らなかった」
グレゴールは答えなかった。けれど、その背中が――僅かに縮んだように見えた。
◇
聖塔の正門を抜けて、街道に足を踏み出した。朝の光が、世界を満たしはじめている。
アリアが一歩、踏み出す。足の裏に、石畳ではなく――土と、草の感触。
「……地面が、違う」
「うん。外の地面は、場所ごとに全部違うよ」
風が吹いた。アリアの髪と、光の衣が揺れる。
塔を背にした六つの影が、朝の光の中に小さく並んでいた。その前に、まだ名前のない道が、どこまでも続いている。
歩き出してすぐ、懐の予言書が一瞬、熱を持った。答えを示すときの熱とは、どこか違う。確かめる前に、風が抜けていった。




