第28話:名もなき明日へ
街道に出て、十歩も歩かないうちにアリアが立ち止まった。
風だ。ひと吹き来て、灰銀の髪をさらい、光の衣を旗みたいにはためかせる。アリアはその場に縫い止められたように動かなくなった。
「……これが、風」
「うん。風だよ」
「記録には風の速さと向きがあった。しかし――これは数値ではない。肌に触れている。冷たくて、でも不快ではない。髪が、動く」
自分の髪を掴もうとして、指の隙間を風がすり抜けた。何度やっても掴めない。
セリナが少し目を細めた。「朝の風よ。冷たいけど、日が昇ればもう少し暖かくなるわ」
「暖かく……なる?」
「体で感じるのは初めてなのよね。大丈夫、すぐ分かるから」
アリアが空を仰いだ。朝焼けの名残が雲の端を染めて、その形をゆっくり崩していく。
「……空。記録にある姿とは違う。奥行きがある。色が動いている。雲が、変わり続けている」
声が、僅かに震えた。
「……こんなにも広いのか。世界は」
ナディアが黙って隣に並んだ。灰銀の髪と光の衣が、同じ風に揺れる。
「初めての朝日だな」
「……初めての、朝日」
「悪くない眺めだろう」
アリアが少し考えた。「……悪くない。いや。良い。これが――良いという感覚か」
道の脇に、白い野の花が朝露に濡れていた。アリアが屈み込む。人のように膝を折ることに慣れていない、ぎこちない動きだった。
「種名と分布域は記録にある。しかし――匂いの記録がない」
花に顔を寄せる。一拍。
「……甘い。少し、土の匂いが混じっている」
セリナが隣にしゃがんだ。「花の匂いは土と混じるのよ。そんな硬い言い方しなくていいの。『いい匂いだね』でいいのよ」
「……いい、匂いだ」
小さな声。語尾に、ぎこちない実感がこもっていた。
フィンが腕を組んで笑う。「初めての花の匂いか。……俺も故郷の花の匂いは、まだ覚えてる。忘れられねえもんだよ」
「フィン……」
「しんみりすんなって。これからはアリアちゃんに花の匂いを覚えさせる旅だ。楽しい方の仕事だろ」
(アリアは数百年、塔の中にいた。世界を記録として知っていた。でも、風を感じたことはなかった。空を見上げたこともなかった。これから、自分の記憶を作り始めるんだ)
◇
歩くうちに、懐の予言書がふと温かくなった。
開くと、空白だったはずの頁に文字が浮かびかけている。そして――頁の隅にずっと居座っていた黒い染みが、消えていた。
指の腹でなぞる。爪の先が、乾いた紙の目をひっかいた。染みのあった場所には、色の抜けた繊維が一本、繊維の並びのまま残っているだけ。拭った跡さえない。あんなに広がっていたのに、いつ消えたのか、僕は思い出せなかった。
「……予言書に、何か書かれ始めてる」
セリナが手帳を出して身構えた。「え?」
『管理都市エコノミアにおける甲冑暴走の損害の見立て。住民の自発的な立て直しが確認された。ルーカスと名乗る青年が立て直しの起点となっている。見通し――完了まで推定十四日。ただし住民の意志に依存するため、確かな値ではない』
セリナの目が一瞬だけ揺れた。「……ルーカス。あの子、動いたのね」
「うん。僕たちが去った後も、自分で選んで動き続けてるんだ」
頁をめくる。今度は形式が違った。
『聖女の街における福祉の在り方の見直し。条件――周辺集落との情報共有。問い。この情報をどう伝えるべきか?』
「……問い?」
さらにめくると、そこは文字の浮かびが遅かった。中央予言書の側でも、まだ整理しきれていない領域なのかもしれない。
『加護圏外化勧告を受けた集落の現状の見立て。自発的残留者の安否――情報不足。問い。本部の現行制度のままで、残された者たちは適切に守られているか?』
その一行で、僕の指先はしばらく動かなくなった。
マーサさん。書状を聞いて「これも導きだろうよ」と笑った人。「やだ」と泣いた子供たち。中央予言書は、僕の村のことも見ようとしている。足りないものを、ちゃんと「足りない」と書いている。
「『どう伝えるべきか』って……予言書が答えを出すんじゃなくて、人間に聞いてるの?」
アリアが頷いた。「私があなたたちとの対話から得たものだ。正しい情報だけでは、正しい判断にはならない。その場にいなければ生まれないものがある。だから――問いかけている」
ナディアが低く呟く。「……理念派が求めていたものだ」
ヴィンセントが目を伏せた。「私が護り手として学んだ在り方とは、まるで違う。しかし……これが本来の形だったのかもしれない」
(命令でもない。お節介でもない。問いかけだ。一緒に考えようとしている。ほとんど白紙だった僕の予言書が、自分の言葉を見つけ始めた)
最後にめくった頁は、文字の浮かびが特に淡かった。
『三十年前に失われた、もうひとつの顕現体の所在。記録なし。問い。』
アリアの光柱が、ふと揺れた。
「……これは、私の片割れだ」
初めて聞く言葉だった。誰も、まだ何も知らない。
「いつか、話せる時が来る。今の私には、まだ言葉が足りない」
セリナがそっとアリアを見た。何も問わなかった。予感だけが静かに場に残る。
(この書は、失くしたものの在り処も、いつか問いにしてくれるだろうか。父さんと母さんの声が、どこの記録に眠っているのか。……今はまだ、聞かなくていい。いつか、でいい)
◇
予言書のさらに奥、完全な空白だった深層の頁で、微かな光が点滅していた。
「エル・クレイン。深層部に変化がある」
開くと、文字列が浮かんでは消え、また浮かぶ。
「文字が安定しないわ」
「大きな予測の読み解き直しだ。グレゴールが『回避できない』と判じた災厄の予兆。数十年前の、限られた情報に基づく予測だった」
見守るうちに、文字が少しずつ形を成す。それでも固まらない。揺れ続けている。
「予測が書き換わっている。『回避できない』ではなくなっている。しかし、完全に消えたわけでもない。情報が、まだ足りない」
「……だから、旅を続ける意味があるんだ」
フィンが口の端を上げた。「おっさんが何十年も怯えてた災厄が、情報を入れ直したら消えるかもしれねえってのは、皮肉な話だな」
(グレゴールさんは情報を遮った。だから予測は更新されず、「回避できない」のまま固まってしまった。自分で自分を追い込んでいたんだ。僕も、ずっとそうだった。空白だから怖いんじゃない。空白だから――書き換えられるんだ)
◇
街道が小高い丘に差しかかった。朝日が昇りきって、世界が光で満ちている。丘の上から、遠い管理都市の輪郭と、その向こうに散らばる街や集落が見えた。
セリナが手帳を開いた。行動指針の欄が、空白のままだ。
「さて。次はどこに向かうの、兄さん」
「セリナが行動指針を書かない朝って、初めてじゃない?」
「……うるさいわね。書かないんじゃなくて、予言書と一緒に考えるの。やり方が変わっただけよ」
頬が僅かに赤い。手帳を閉じた。
フィンが手を挙げた。「次の目的地は俺に任せろよ。ヴェルムの跡地に近い街がある。予言書の情報の遮り――ありゃ、ヴェルムの崩壊にも絡んでたのかもしれねえ。確かめる価値はあるだろ」
「フィン……」
「感傷じゃねえよ。ただ、本当のことを知りたいんだ。アリアちゃん、ヴェルムの記録はあるか」
「……遮断が最も厳重だった領域の一つだ。正しい情報が入れば、読み解き直せる可能性はある」
「そうか。じゃあ、行く理由ができたな」。軽い口調。目だけは真剣だった。
ナディアが続く。「理念派の拠点がいくつか残っている。各地の状況を直接確かめる必要がある。私が案内できる」
一拍おいて、その視線が僕の懐に落ちた。「それに――貴殿の書に刻まれた徴のことも、まだ確かめきれていない。伝承の話は、いつか、きちんとする」
ヴィンセントが頷いた。「護り手の支部にも変化が伝わっているはずだ。混乱を抑えるために……私にできることがあるだろう」
「みんな、行きたい場所があるんだね」
セリナが鼻を鳴らす。「当然でしょう。兄さんだけの旅じゃないわ。最初からそうだった」
声に出してから、自分でも少し驚いた。
「僕は、まずあの村に戻りたい。マーサさんが今どうしているか。子供たちが、どこでどう暮らしているか。自分の目で確かめに」
セリナが手帳を持つ手を止めた。フィンが眉を上げ、ナディアが静かにこちらを見る。アリアの光柱が、一段温度を上げた。
「中央が見直すと決めても、村が圏外化されたままなら、書状一枚で何かが変わるわけじゃない。だったら、誰かが行って、確かめて、伝え直すしかない。それを最初に立ち上げるのは……僕の役だと思う」
セリナが小さく息を吐いた。「知ってた。兄さんがそれを言わないわけがないって」
「来てくれる?」
「来るに決まってるでしょう。一人じゃ三日で迷子よ」
(僕は最初、一人で村を出ようとした。セリナに捕まって、フィンと出会って、ナディアと戦って、ヴィンセントとぶつかって、アリアと話した。一人じゃなくなった。予言書も、一人じゃなくなった。なら、戻る時も――一人じゃない)
「エル・クレイン」
アリアが僕を見ていた。光の衣が、朝の光の中で淡く揺れている。
「この光と、風と、花の匂いと、みんなの声。これは記録じゃない。私の――記憶だ。記録は事実を保存する。でも記憶は、文脈を保存する。……私は今、文脈を作り始めている」
「うん。それが、外の世界を知るってことだよ」
「もうひとつ、聞きたいことがある」
「なに?」
「昨日の携行食――あの変な草は、本当は何という名前だったのか」
「……知らない。フィンが見つけたやつだし」
フィンが両手を上げた。「俺も知らねえよ。道端に生えてたんだもん」
「だから味が微妙だったのよ。次は私が選ぶわ」
「毒はない」
ナディアが横から短く言った。全員の視線が集まる。彼女は真顔のまま付け足した。
「……行軍中に、齧って確かめた」
フィンが吹き出す。セリナが何か言いかけて、やめた。
アリアが口元を、そっと動かした。
「名前がないのに、全員が覚えている。これが――対話の中で生まれたもの、か」
笑っていた。ぎこちない。それでも、確かに笑顔だった。
「……ちょっと。今笑った?」
「笑った……のだと思う。この表情がどういうものかは、まだうまく分からない」
「いいわよ、そんなの。笑えたならそれでいいの」
六人が丘の上から歩き出す。朝の光を背に、まだ名前のない道を。
懐の予言書が、微かに温かい。アリアの誘導の温もりとは違う。問いかけの温度だった。
(僕の予言書はほとんどが空白で、たまに不吉な顛末しか書かれなくて、不良品だと思っていた。でも――空白だったから、記録できた。空白だったから、問いかけられた。空白だったから、これから何でも書ける)
「……行こう」
「行き先は?」
「まだ決まってない。予言書に聞いてみよう――って言いたいけど、たぶん予言書も『どうしたい?』って聞き返してくるだけだと思う」
「……なにそれ。役に立たない予言書ね」
「そうかな。僕は、これくらいがちょうどいいと思うけど」
「……私もそう思う」
風が吹いた。六人の背中を押すように。
まだ名前のない明日へ。




