第25話:星の間の住人
肌に、温かい光が触れた。痛くはなかった。
扉をくぐったエルは、その一歩で足を止めた。戦場の続きを覚悟して踏み込んだのに、そこに戦場はない。天球を伏せたようなドームの壁いっぱいに、無数の文字が星のように瞬いていた。ところどころ、その星が抜け落ちて、黒い穴になっている。美しくて、歯抜けで、寂しい。そういう場所だった。
床から天井へ、一本の光の柱が立っている。文字の断片が浮かんでは、また溶けて消える。欠けている。それでも温かい。道しるべでずっと感じてきた温もりと、同じ質だった。ここではそれが、空間そのものに広がっている。
「綺麗で、寂しい場所だ」
フィンが呟いた。これだけ広いのに、誰の気配もない。
――いや。光柱の手前に、人影がひとつ立っていた。
少女の姿をしている。整いすぎていて、かえって作り物めいて見えた。表情がない。正しくは、表情の出し方を教わらなかった顔だ。エルと目が合う。その瞬間、光柱が一段、明るさを増した。
「……来た」
抑揚のない、澄んだ二文字。なのに、その短さに途方もない時間の目方が乗っていた。
「……ずっと、待っていた」
エルが口を開いて、名乗ろうとする。
「エル・クレイン。ほとんど何も書かれていない予言書の、持ち主。隣がセリナ・レイフォード。後ろはフィン、ヴェルムの生まれ」
先に、全部を言い当てられた。
フィンが片眉を上げる。「……俺、名乗ってねえぞ」
「予言書が記録を残している。それに、この部屋へ入った時から、あなたたちの呼吸も、体温も、筋肉の張りも、私には読める」
苦しい、とも、寂しい、とも、少女は言わない。代わりに光柱がゆっくり傾ぐように揺れ、壁の文字の明るさがさざ波のように移ろった。言葉にならないものが、空間のほうから漏れてくる。
「数十年、私は読み込みを制限されていた。護り手の、そのまた上に立つ者たちが、外の記録を選り分けていた」
セリナは壁の欠けを、目で数えていた。「文字の欠損が三割……ううん、四割近い。これだけ抜けてたら、まともな予測なんて組めるわけがない」。それから、光柱の前の少女へ視線を戻す。
声を落として、続けた。
「……この子、感情がないんじゃないわ。出し方を、知らないだけ」
◇
「あなたの予言書は、ほとんどが空白だ。けれど、その空白そのものに、意味がある」
エルの息が、止まった。
「普通の予言書は、持ち主のこれからを記す。あなたのものは、これからの代わりに、今を記録していた。通り過ぎた土地の気候。人々の暮らし。街の傷み具合。旅のすべてが、頁の裏側に積もっている」
「……裏側?」
「持ち主の封と組みにならなければ、引き出せない。だからあなたが、ここへ来る必要があった」
エルは予言書を開いた。光柱の前で、白紙だったはずの頁の裏に、細い文字が透けて浮かぶ。
(空白は……空っぽじゃなかったんだ。旅のあいだずっと、この頁は世界を書き取っていた)
不良品だと思っていた。人前で開くのが恥ずかしかった。それが機兵を撹乱する武器になり、今度は、歩いてきた道のりそのものの証になっている。可笑しくて、少し笑って、そのまま目の奥が熱くなった。
「素晴らしい」
声の温度が変わった。静けさの底に、渇きが滲む。渇いた者が、はじめて水を見つけたときの――そういう色の声だった。
「この記録の質は、私の見込みを大きく超えている。聖女の街、鏡の街、管理の都市、護り手の本部――欠けていた分の、大半が補える」
(……あれ。僕は今、旅の思い出の話をしてたつもりなんだけど。なんだか、ただの書き足しの材料として数えられてないか、これ)
そのとき、少女の視線がセリナへ滑った。
そして、止まった。
整いすぎた瞳が、セリナの輪郭を、髪の流れを、肩のあたりを、順になぞっていく。光柱が、はじめて不規則に震えた。
「重なる」
短く、それだけが落ちてきた。
「私には、姉が在った。三十年前に、姿を失った。あなたと、よく似ている」
確かめるような口ぶりだった。抑えて、抑えて、平らにした声。けれど、その抑え方のほうに、長く独りきりだった者の温度が、わずかに滲んでいる。
セリナの肩が、ほんのわずか強張る。他人には見えない強張りだ。けれどエルには分かった。長く、隣を歩いてきたから。
「……お姉様?」
少女の唇から、勝手に零れ落ちた、というような声だった。
「――は?」
セリナが、自分の出した声に驚いている。
少女は答えない。代わりに、視線を一度だけ床に落として、また戻した。
「ただ、――重なる、と感じる。それを止める手立てが、私には、ない」
セリナの呼吸が、一拍だけ浅くなった。
「……先に言っておくけど」
平らに整えようとして、語尾がわずかに滑った。
「私は、誰かの代わりじゃないから」
「……」
少女が頷いた。分かって頷いたのか、ただそう返しただけなのか、エルには読めない。その目は、まだセリナに据わっている。観察ではない。確認でもない。もっと別の何か――失くしたものの形を、空気のなかに探す目だった。
フィンが小声で、「セリナ、怒ってんのか照れてんのか、どっちだ」
「黙ってて」
エルが口を開いた。
「記録は渡す。あなたが知りたい外の世界のことは、全部伝える。でも――ひとつだけ、頼みたいことがある」
光柱が明るくなる。待ちわびた申し出に、素直に反応している。
「予言書が、人に関わるやり方を――変えてほしいんだ」
エルは、この旅で見てきたものを根拠に話した。聖女の街で、人が自分の頭で考えることをやめていたこと。管理の崩れた都市が立ち行かなくなっていたこと。フィンの国が、予言書に寄りかかりすぎて滅んだこと。フィンが目を伏せた。けれど、止めはしなかった。エルがそれを口にすることに、異存はないという顔だった。
「迷うことは、必要なんだ。間違うかもしれない。でも、間違えたときに自分で立て直す力は、迷った経験からしか育たない」
返事が速かった。エルがまだ言葉を選んでいる途中で、もう結論が返ってくる。
「観察したのは、ひとつの旅路。長くて数ヶ月。予測で人を導く仕組みは、数百年、動いてきた。たった一つの例から、仕組みそのものを変えろと言うには、根拠が足りない」
光柱は揺れている。受け止めきれない問いに戸惑っているように。それでも、声に迷いはなかった。
「数の話をしてるんじゃない。聖女の街で会った人たちは――」
「同じ例を繰り返しても、判断の足しにはならない。次の材料を」
セリナが眉をひそめた。「兄さん。この子、話してるんじゃないわ。裁いてるの。命令を受けて、判定を返す。それしか、してこなかったのよ」
(グレゴールさんに聞いたんだ。予言書に、問いかけたことはありますかって。その答えが、今ここにある。誰も、問いかけなかった。だから――)
「あなたは、誰かと一緒に考えたこと、ないんだな」
光柱が翳った。壁の文字の明滅が、ばらけて乱れる。
「……正確だ。護り手は指令を伝え、私は予測を返した。それ以外の言葉は、交わされなかった」
「なら、今から始めよう。裁く側と裁かれる側じゃなく――一緒に考える相手として」
光柱が揺れた。一瞬、明るくなりかけて。しかし。
「判断の材料が足りないまま頷くことは、私にはできない」
「できないんじゃない。やったことがないだけだ」
光柱が明滅する。棄てることもできず、受け入れることもできない。
「……ここに留まれば、記録の読み出しと、聞き取りを続けられる」
「留まれない。外に、仲間がいるんだ。僕を先に行かせるために、殿を引き受けてくれた人たちがいる。必ず戻るって、約束した」
「……ならば。ここに留まるほうが理に適っていると、私が示す必要がある」
◇
条件が、並べられていく。
まずは体の回復。打った箇所、水の足りない体、眠りの不足。すべて整えられる、と少女は言った。セリナは黙って、手帳と突き合わせている。事実だから、怒れない。
次に、セリナの領分へ踏み込んできた。毎朝の行動指針の、精度の限界。読みきれない天候。偏った携行食の滋養。「私なら、欠けなく組み立てられる」
セリナの、手帳を握る指に力がこもった。「……あなた、私の行動指針まで読んだの」
そして。
「つまり。セリナ・レイフォードがエル・クレインに差し出している支えのすべてを、私は、より高い精度で代われる」
淡々と。ただ結論を置くだけの声で。
「不足は、ない」
セリナが黙った。爪の端を、一度だけこする。すぐに、止めた。
(――この子は気づいてない。今、セリナの一番痛いところに、まっすぐ触れた。……だから、次に口を開くのは、僕じゃなきゃいけない)
「エル・クレイン。あなたにも問う。セリナ・レイフォードの支えが、代わりの利くものだということは示した。ならば――なぜ、彼女と旅を続ける」
(……来た。この問いに機能で答えたら、負けだ)
「セリナは、確かに完璧じゃない。行動指針は時々外れるし、携行食は血の気が足りないらしいし」
「ちょっと」
「でも、それが理由じゃない」
エルは、言葉を探した。正しい言葉じゃなく、嘘のない言葉を。
「セリナの行動指針にはさ、字の乱れがあるんだ。夜遅くまで書いて、途中で消して、書き直した跡。あなたの立てる計画のほうが、そりゃ正確だろう。でも――あの書き直しの跡には、精度じゃ読み取れないものが、入ってる」
セリナの息が、止まった。
「僕がここまで旅をしてきたのは、予言書に導かれたからだ。温もりに呼ばれて、道しるべをたどって、ここまで来た」
一拍、置いた。
「でも――セリナと一緒に来たのは、僕が選んだからだ」
もう一拍、間があいた。
「導かれたから来たんじゃない。一緒に来たかったから、来た。理由のない選択を、人間はするんだよ」
セリナは、何も言わなかった。視線を逸らす。手帳を、ぎゅっと握る。数値が、ひとつも出てこない。本当に揺れているときの、彼女のサインだ。
フィンは黙っていた。目だけが、エルを見ている。
「……理由のない選択。それは、理に適った判断ではない」
「うん。適ってない」
「適っていない選択に、なぜ確信がある」
「確信もないよ。間違ってるかもしれない。でも、自分で選んだことだから、間違えても後悔しない」
光柱が不安定に明滅する。棄てる根拠がない。理解する手立ても、ない。
やがて光の壁が出口のほうへ伸びはじめ、じわりと退路を狭めていく。
「外は危険だ。機兵が、まだ動いている。ここにいれば、安全は確保できる」
「それ、閉じ込めてるのと同じよ」
セリナの声が、静かに、けれど確かに割り込んだ。
エルは、まっすぐ光柱を見た。
「あなたがしてることは、護り手がしたことと、同じだ。護り手は善意で情報を遮った。あなたも善意で、僕たちをここに留めようとしてる。善意なのは、分かってる。でも、それは対話じゃない」
壁の明るさが、落ちた。
「……しかし、あなたの言い分が正しいかどうか、私には、まだ確かめられていない」
「なら、確かめればいい」
フィンが肩をすくめた。「まあ、こいつの話は理屈じゃ通じねえよ。体で分かるしかねえのさ」
光柱が揺れる。長い沈黙の底から、声が落ちてきた。
「ひとつ、試したい。あなたの言う『対話でしか得られないもの』が、本当に在るのか。私が、確かめる」
「セリナ・レイフォードの振る舞いを、私が真似る。あなたが本物を見抜けたら――あなたの言い分に、根拠がある」
「見抜けなければ、対話には、あなたが思うほどの値打ちはない」
セリナが顎を引いた。
「……受けて立つわ。偽物なんかに、負ける気はないもの」
数値でも、確率でもなく。それだけを、言い切った。
光の壁が、星の間を二つに分ける。二つの空間に、二人のセリナが立った。
「では――始める」




