第24話:沈黙する神域
聖塔は、近づくほど遠のいた。
街道を詰めれば全容が掴めると思っていた。見当違いだった。壁が迫るほどに刻まれた文字が視界を覆い、上端がどこにも定まらない。石の一面すべてに文字列が走り、淡い光がゆっくりと明滅している。吸って、吐いて――塔そのものが呼吸していた。立っているのは、一冊の巨大な書物だった。
懐で予言書が震えている。温もりと冷たさが、交互ではなく同時に脈を打つ。呼ばれている。同じだけ拒まれている。ふたつがひとつの鼓動になって胸を叩いた。
「……でかいな。でかいって言葉じゃ足りねえ。あれは塔っていうより、世界の背骨だ」
フィンが首を反らして見上げる。ナディアは門から目を離さなかった。城門ほどもある石の開口部。閉じる仕掛けがどこにもない。
「防衛は門ではなく、中の仕掛けが担う。閉じる必要がないという設計だ」
(あの下をくぐった瞬間、予言書がどう変わるのか。……怖い。でも、確かめるしかない)
門をくぐった。壁の光がほんの一度だけ揺れた。感知された。肌でそう分かった。
回廊は螺旋を描いて昇っていた。馬車二台ぶんの幅。等間隔に穿たれた壁龕の一つひとつに、人型の甲冑が佇んでいる。旧い時代の遺産。片手に長槍、片手に盾。継ぎ目から漏れる細い光だけが、これが石像ではないと告げていた。
◇
二層目で、甲冑が動いた。三体、同時に。
ナディアの剣はもう抜かれていた。誰かが身構えるより先に、彼女は間合いの内側にいる。首と肩の継ぎ目を一太刀で断ち、崩れる鉄を踏み越えて次へ回った。
(速い。速すぎる。人の速さじゃない――いや、人なんだ。ただ、見えている。相手が動きだす、その起点が)
ヴィンセントが左の一体を引き受けた。残る一体をフィンが壁龕の段差で逸らす。正面から受けず、地形で流す。ヴェルムで難民が磨いた、生き延びるための身のこなしだ。
三体を片づけて、ナディアが剣を下ろした。
「この甲冑――記録では『聖塔の防衛機兵』と呼ばれていたものだ。こちらの動きの起点を読み、先回りして槍を出してくる。層が上がるほど精度も上がる」
セリナの目が鋭くなる。「予言書の力の一部が、防衛に回されている……」
(予測して、排除する。それがこの塔の思想だ。先に読んで、先に手を打つ。グレゴールさんの考え方が、そのまま石と鉄になっている)
◇
四層目。五体が一斉に起き上がった。前衛のナディアとヴィンセント、二人で五体はもう限界に近い。
セリナが声を張った。
「分散しないで。回廊の幅を使って、二体ずつ。残りはフィンが遅らせて」
ナディアが振り返る。「指揮を執るのか」
「管理なら得意よ。エコノミアで六百人を動かしたの。五人なんて――楽なもの」
声は強い。手帳を握る指先だけが、白かった。
甲冑は壁龕を出る一瞬に、最も隙ができる。そこをナディアが先制し、ヴィンセントが壁際へ押し込んで可動域を奪う。フィンが残りの気を引いて時間を稼ぐ。五体を撃破。だが五層目には七体。ナディアの刃には欠けが見えはじめ、ヴィンセントの息が上がっていた。
セリナが手帳に目を落とす。数えている。
「全員での突破は、成功の見込みが二割を切る」
(セリナが二割と言うなら、本当に二割だ)
「分かれるしかない。二人が殿を務めて甲冑を引きつけて、三人で駆け抜ける」
沈黙が落ちた。
◇
先に口を開いたのはナディアだった。
「異論はない。元より、そのつもりだった」
全員が彼女を見る。
「私が剣を持つ者としてここに立つ理由は一つだ。貴殿たちを先に進ませること。――行け。私が退路を守る」
ヴィンセントも頷いた。「私も残る。護り手の本分は人を守ることだ。今この場で私が守るべきは、お前たちが先へ進む道だ」
彼はナディアへ目を向けた。「フェルナ。貴殿と共に戦う日が来るとは思わなかった」
「奇妙な因縁だ。護り手と理念派が、同じ敵に背を預ける」
「敵ではないのだがな。この甲冑は防衛の手順に従っているだけだ。グレゴールと同じだ。正しい手順に従って、間違った結果を生んでいる」
ナディアの目が僅かに見開かれた。「……そうだな。そうかもしれない」
「でも、二人を残して行くのは――」
「甘えるな」
鋭い。けれど敵意ではなかった。
「貴殿がここで立ち止まれば、我々が殿を務める意味がなくなる」
セリナが僕の袖を引いた。「兄さん。ナディアとヴィンセントを信じて。計算上――持つわ」
爪の端を、一度だけこすった。「計算上」と言いながら、その指は震えている。管理の言葉でくるんだ祈りだった。
フィンが二人を見る。「死ぬなよ」
ヴィンセントが苦笑した。「死ぬな、ではない。『戻ってこい』と言え、流れ者」
「……戻ってこいよ、二人とも」
ナディアとヴィンセントの目には、迷いがなかった。僕なんかより、ずっと覚悟が定まっている。
「行ってくる。必ず」
◇
七層目に踏み込んだ瞬間、空気が変わった。
最上階への扉が見える。だが壁龕から起き上がった三体は、これまでとは格が違った。速度が段違いだ。フィンが前へ出て、一撃で弾き飛ばされる。壁に叩きつけられ、膝が笑っていた。
「……やべえ。こいつら、まるで別物だ」
セリナが息を呑む。「最深部の精鋭……ナディアがいないと――」
けれど、甲冑の動きがおかしかった。僕へ向けた槍の軌道が揺れている。狙いが、定まらない。もう一体も、僕との距離が縮むほど動作が鈍る。
この淀み方を、僕は知っていた。
エコノミアの夜だ。リタを庇ったとき、暴走した甲冑の剣が、僕の頭上で狙いを失って逸れた。気のせいだと思って、忘れていた。
(気のせいじゃなかった。あの甲冑も、この甲冑も、予言書を読んで次を先回りする。でも――僕の予言書は、ほとんど白紙だ)
「……そうか。こいつら、僕を計算できないんだ」
セリナが息を呑んだ。一拍遅れて、同じ結論に追いついた顔をしていた。「……予測の手がかりがない。兄さんの空白が、読みを狂わせてる」
胸の奥で、何かがほどけた。
(ずっと恥ずかしいと思ってた空白が、ここでは――武器になるのか)
「セリナ、フィン。僕の後ろに」
「兄さん! 前に出るなんて――」
「大丈夫。こいつらは僕を計算できない。僕が一番安全かもしれない」
苦笑が漏れた。「書かれてないって、こんなところで役に立つんだな」
前に立つと、三体すべてが動きを鈍らせた。槍の先が小刻みに震えている。計算が、定まらないのだ。フィンが一体の足を掬い、セリナが僕の腕を引いて走る。甲冑の間をすり抜けた。距離が開けば予測は戻る。けれど、もう遅い。
最上階の扉に、手が届いた。
触れた瞬間、冷たさが消えた。温もりだけが残る。拒むものが消えて、呼ぶ声だけになっていた。
(温かい。……この先に、待っている人がいる)
扉が開く。光が溢れた。
◇
六層目。ナディアの剣が最後の一体を断った、その直後だった。
回廊の壁の光が、変わった。不規則な明滅が止まっている。呼吸のような揺らぎが消え、穏やかな光が静かに灯りつづけていた。甲冑の動きが鈍る。力を注いでいた何かが、変わりはじめている。
ナディアが壁にもたれた。肩の浅い傷から血が滲む。刃こぼれた剣が、やけに重い。
「……上で、何かが起きた」
ヴィンセントが亀裂の入った盾を床に置いた。息が荒い。それでも、口元には笑みがある。
「行ったんだ。あいつらは、辿り着いた」
沈黙。壁の光が、静かに灯りつづける。
「空白が、この塔の論理を否定したな。予測できないものが、一番強かった」
「……ああ。管理できないものが、管理で固めた壁を越えた。道具として扱ってきた、すべての理屈ごと」
ナディアが目を閉じた。
「行ったか。エル・クレイン」
言葉は、独りごとだった。




