第23話:裂ける道
「ローウェル。前哨基地の指揮官が、持ち場を離れるとは穏やかではないな」
低く、穏やかな声。叱ってはいない。ただ事実を確かめている――それが、叱責よりずっと重い。
護り手中央本部、謁見の間。窓を背にして座るその人が、逆光に顔を溶かしている。だから表情が読めない。身なりは隙なく、背筋は伸び、声に威厳がある。立派な指導者。近づいて、気づいた。あの目には光がない。疲れているんじゃない。見ることを、やめた目だ。
ここまで、顔より手順が先に立っていた。門の守衛は名簿を開き、指で欄をたどってから顔を上げた。ヴィンセントの徽章が輝いていなければ、手順はもう一段重なっていただろう。廊下には予言書の古い功績が額に並び、フィンが横で呟いた。「過去の手柄を飾るのは、今の手柄がないからだ」。いつもの軽さがなかった。
(この城砦に入った瞬間、懐が黙り込んだ。外では温もりと冷たさを繰り返していた道しるべが、ここでは何も囁かない。この建物自体が、何かを遮っている)
セリナが手帳から整理済みの記録を卓に並べた。エコノミアの報告書の書き換え。時系列順、照合済み。反論の芽を先に潰した構成だ。
「少なくとも半年で、四十七件の改竄が確認されているわ。事務処理の偶然が半年に四十七回も重なる確率は、計算するまでもない」
ナディアが広域の傍証を重ねた。一つの都市の話じゃない。組織立った情報の遮断だと。
グレゴールは記録に目を落とし、表情を変えなかった。驚いていない。知っている顔だ。
「……事実関係については、否定せん」
ヴィンセントが拳を握るのが、視界の端に見えた。否定されないことの衝撃は、否定されるより深いところに刺さる。
「我々が情報を制限した。それは事実だ。問題は、なぜそれが必要だったかだ」
◇
グレゴールの理屈は、三本の柱で組まれていた。
一つ、ヴェルムの悲劇。予言書が管理されず国が滅んだ歴史。フィンの拳が白くなる。自分の国の話だ。
二つ、と言いかけて、声が一瞬だけ揺れた。「最も近しい人間の未来を読んだ。あらゆる手を尽くして――変えられなかった」。卓の上で、指先が動く。もう持っていない頁を捲る癖だ。
(この人は、予言書に傷つけられた人だ)
三つ、実績。「我々の制限の下で、大きな混乱は起きていない。それが結果だ」
体験と歴史と実績。三本まとめて据えられると、すぐには崩せない。部屋の空気が、重く沈む。
フィンが低く切り込んだ。
「あんた、亡国の話をしたな。俺はヴェルムの出だ」
軽さが、完全に消えている。
「あの国は予言書が野放しだったから滅んだんじゃない。使い方を間違えた人間のせいで滅んだ。あんたは同じことをしてる。道具と呼んで、管理と称して、予言書の口を塞いでる」
ナディアが続けた。「あなたはかつて、理念派に近い思想を持っていたと聞いた。同じ出発点から――なぜ、こうなった」
「理念を守るために、理念を曲げた。矛盾は承知している」
ナディアの手が震えていた。自分の理念の歪んだ鏡像が、卓の向こうに座っている。
セリナが手帳の間から一枚の写しを抜いて、卓に置いた。各地で拾い集めた書き換えの記録――半年分に、同じ決裁の花押が並んでいる。
「この花押は、あなたのものね」
グレゴールは、否定しなかった。
「あなたの言う管理――情報を止めたあと、予言書の状態を観察していた? 記録していた?」
「必要なかった。混乱が起きなかった。それが結果だ」
「観察しなければ、悪くなったかどうかも分からないでしょう」
「起きていない。ならば、証明は済んでいる」
崩れない筋だった。セリナが次の数字を探して――見つけられなかった。
「……管理は、相手を知ろうとすることよ。あなたがしたのは、目を塞いだだけ。それは支配だわ」
(セリナの声から数値が消えている)
ヴィンセントが立ったまま、声を絞り出した。
「閣下。私はあなたの論理を信じてきました。だからこそ分かる。正しい論理で、間違った結論に辿り着くことがある」
グレゴールの表情が僅かに動いて、すぐ戻った。
◇
僕はここまで、ほとんど黙って聞いていた。
フィンの怒りも、ナディアの痛みも、セリナの鋭さも、ヴィンセントの苦悩も――何一つ、あの目を動かさなかった。
(言葉が、届いていない。仲間が全力でぶつけても、あの目は微動だにしない。……僕に、何ができる)
気づいたら、口が動いていた。
「一つ、確かめたいことがあります」
自分でも、静かな声だと思った。
「半年前、北の外れの村が一つ、加護圏外化されました。麦と薬草しかない、小さな村です。書状が一枚届いて、それで全部が決まった。……あの決定を、あなたは憶えていますか」
グレゴールがわずかに首を傾げた。記憶を探る仕草ですらない。ただ、問いの意味を測っている。
「……どの村か、とは聞かんのだな」
「え?」
「半年で、圏外化の裁可は二百を超える。北の小村となれば、書類の上の一行だ。個別には――憶えていない」
とぼけているわけでも、突き放しているわけでもなかった。本当に、憶えていない。マーサの畑も、井戸端のトムも、「やだ」と泣いた子供も、この人の中には最初から存在していない。一枚の書類として処理されて、それきりだった。
頭の芯が、熱くなった。
「……あの村には、人が住んでいました」
声が掠れた。抑えようとして、抑えきれない。
「加護が薄い、それだけで。誰も抗議が間に合わないように書状が届いて、期限が切られて。マーサさんは『これも導きだ』って、笑うしかなかった。子供たちは散り散りになった。それが――あなたには、憶える価値もない一行なんですか」
初めて、声を荒げた。旅に出てからずっと飲み込んできたものだった。村を出た日も、仲間の前でも、笑って、流して、飲み込んできた。それが今、堰を越えた。
グレゴールは、荒げた声を静かに受けた。
「……その通りだ。私は憶えていない。憶えていては、裁可などできん」
嘘のない声だった。だからこそ、たちが悪い。
熱がゆっくり引いていく。引いたあとに残ったのは、もっと静かで、もっと固いものだった。
「……もう一つだけ、聞かせてください」
「あなたは予言書に、一度でも問いかけたことがありますか」
沈黙。
「道具として扱った。情報を入れたり、止めたり。でも――聞いたことがありますか。予言書が何を求めているか。苦しんでいるか」
グレゴールの指が止まった。頁を捲る癖が、止まった。
「……予言書は道具だ。意思などない」
「本当に? 三十年、世界で一番近くにいて――近くにいすぎて、見落としたんじゃないですか」
一瞬、グレゴールの目に何かが走って、消えた。三十年の壁は、一度の問いでは崩れない。
「……少年。こちらからも問おう」
初めて、グレゴールの方から顔を上げた。「未来を知り、それでも変えられぬと知る絶望を、お前は知らぬ。私は、誰にもあれを味わわせたくなかった。目を塞ぐことが優しさである場合も、ある。それでも、お前は知ることを選ぶのか」
問いの形をした、説得だった。
それでも――僕は椅子を引いて、立ち上がった。
「あなたの話は聞きました。でも、僕たちはこの先に行きます。中央聖塔に、中央予言書に会いに行く。あなたの許可は――もう、求めません」
ヴィンセントが護り手の敬礼をした。上官にではない。かつて自分が信じた秩序への、最後の礼だった。
「護り手の本分は、人を守ることです」
グレゴールの目が、一瞬だけ光を取り戻した。若い頃の自分を見たのかもしれない。だが、光はすぐに消えた。
「……止めはしない」
言葉が途切れた。空虚だった。
◇
門を出た瞬間、懐が温かくなった。建物の中で黙り込んでいた道しるべの温度が、一息に戻ってくる。その直後、冷たさ。温もりと冷たさの間隔が、さらに短くなっている。
(呼ばれている。でも、何かが拒んでいる。塔の中には、待っているものと、阻むものの両方がある)
丘を下りながら、ヴィンセントが呟いた。
「出発点は、間違っていなかった。それが、一番つらい」
「うん。だから――僕たちは、同じ場所で止まらないようにしないと」
セリナが手帳を閉じて、小さく息を吐いた。
「あの人、崩れていないのが怖い。崩れていたら、まだ救いがある。あのまま座り続けている方が――」
言葉を切って、閉じたばかりの手帳をもう一度開き、何も書かないまま閉じ直した。
丘の下に、中央聖塔への最終街道が伸びていた。塔の輪郭が、はっきり見える。
ナディアが剣の柄に手を置いた。
「ここから先は護り手の管轄外だ。聖塔の防衛の仕掛け――旧い時代の遺産が待っている」
「つまり、力で突破するしかないということね」
「……ようやく、私の出番だ」
フィンが口笛を鳴らしかけて、やめた。代わりに笑う。「おお、ようやく騎士さんの腕が見られるのか」
「……茶化すな」。でも、ナディアの口元が少し緩んだ。
僕は前を向いた。懐で、温もりと冷たさが忙しなく入れ替わっている。その振れ幅の向こうに、何かが待っている。
「行こう。予言書が待ってる」




