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第22話:揺れる剣、選ぶ手

旗が、裂けていた。


護り手の紋章を染め抜いた布。その端が風に食まれ、糸の一本一本まで見えるほどにほつれている。砦を転用した前哨基地――その門前に立ったとき、僕の目が最初に拾ったのはそれだった。誇りを縫い込んだはずの布が、手入れもされないまま風にいたぶられている。


「ここから先に、迂回路はない」


ナディアが足を止めた。灰銀の髪が乾いた風に流れる。


「この前哨基地が、中央聖塔への最後の陸路を押さえている」


「で、誰が守ってんだ?」


フィンの問いに、ナディアは一拍だけ黙った。


「……ヴィンセント・ローウェル。若いが有能な指揮官だ。忠誠心も厚い」


名前を聞いた瞬間、背中が冷えた。頭で思い出すより先に、体が反応していた。探知具の灯をこちらへ突きつけた朝。「歪みか」と、低く値踏みされた声。あの人の報告が、僕たちの村を加護の外へ押し出す書状を動かしたのだ。


セリナの手がいつのまにか僕の袖を掴んでいた。険しいを通り越して、凍りついた横顔。


(あの人が、ここにいる。僕たちの村を切り捨てた、あの人が)


「基地の様子がおかしい」


ナディアの声が低くなる。門前の見張りは槍を持つ手に力がなく、装備の革は手入れの艶を失っていた。


「彼の部隊の練度は高いはずだ。この乱れは――指揮の根が揺らいでいる」


セリナが袖から手を離し、代わりに手帳を開いた。基地の配置を写し取る目が、管理者のそれに切り替わる。ただ、手帳の角を押さえる指先が白い。


懐の予言書が冷たく震えた。温もりと冷たさの間隔が、日ごとに詰まっている。呼ばれている。そして、遮られている。


「止まれ……! 何者だ」


見張りの目は、まず僕たち三人の袖口を追った。所属を示す色。身分の徴。旅装にこびりついた土。顔を確かめるのは、そのあとだ。声には威厳より疲れが滲んでいた。


前に出ようとしたナディアを、僕は手で制した。自分から一歩、踏み出す。


「僕はエル・クレイン。この先の中央聖塔に用がある」


見張りの顔色が変わった。


「エル・クレイン……お前が、例の――」


連絡が絶たれる前に回っていた手配。予言書の異端者。見張りの手が武器を握り直し、奥から駆けてくる足音が重なった。槍の穂先が四本、僕へ向く。


「動くな!」


フィンが低く舌打ちした。セリナが半歩、僕の前へ出る。


(まずい。ここで斬り合いになったら――)


「騒がしいな。何があった」


奥から歩いてくる足音は、記憶のなかとまるで同じだった。整った足取り。隙のない佇まい。ただ、目の下に薄い影がある。制服だけが不自然なほど隅々まで整えられていた。その丁寧さが、秩序にしがみつく人間の必死さを、裏返しに映していた。


僕を捉えた瞬間、ヴィンセントの足が止まった。


「……クレイン」


低く、硬い声。手が腰の剣の柄に触れる。


「貴様が、のこのこと来たか」


あの時と同じ目だ。秩序のためなら容赦しない目。見張りたちが主の反応を読んで、槍を構え直す。


セリナが一歩、前へ出た。


「あなたに用があるのは兄さんじゃない。私よ」


「レイフォード……」ヴィンセントの視線が滑る。セリナ、フィン。そして――


「フェルナ……!?」


ナディアを認めた瞬間、彼の表情が初めて崩れた。ナディアは眉ひとつ動かさない。


「……護り手の旗がほつれている。貴殿の基地にしては、らしくない」


挨拶ではなかった。観察の報告だ。理念派と護り手。組織としての壁が、二人のあいだに横たわっている。


「理念派の継承者が、なぜこの者たちの側にいる。……いや、なぜ貴様たちは、揃ってここにいる」


声が震えていた。ナディアが僕の隣に立っていること。それ自体が、彼の信じてきた秩序の図を、内側から崩しにかかっていた。





「下がれ。私が対応する」


ヴィンセントが命じ、槍が引かれた。少数での対話を選ぶ判断は、さすがに指揮官だ。とはいえ、彼の手はまだ剣の柄を離していなかった。


「クレイン。貴様の罪状は知っている。予言書の秩序を乱した異端者――」


「それ、いつの情報?」


わざと軽く返した。喉は乾いている。「連絡が途絶えて、もう何日になる?」


ヴィンセントの唇が引き結ばれた。痛いところを突かれた顔だ。


「……一時的な不調だ。中央が対応している」


「本当に、そう思う?」


セリナが手帳から顔を上げた。基地の配置を写していた目が、まっすぐヴィンセントを射抜く。


「あなたの兵士を見たでしょう。七日以上まともに整備されていない装備が四割。見張りの交代間隔もずれてる。指揮の鎖が生きていたら、あの状態にはならない」


「黙れ。貴様らに組織の内情を語る資格は――」


「資格ねえ」


フィンが肩をすくめた。口調は軽い。だが、その奥は少しも笑っていなかった。


「隊長さん、一つ聞いていいかい。あんたが最後に中央から『具体的な指示』をもらったのは、いつだ?」


ヴィンセントは答えなかった。その沈黙が、答えだった。


「だろうな」茶化す色が、フィンの声から抜けた。「指示もないのに持ち場を守ってる。忠誠心は立派だ。――だがそれは、忠誠を向ける先がまともだって前提の話だろ」


(フィンが、軽口を控えてる)


ナディアが一歩、前へ出た。


「ヴィンセント。貴殿の忠誠心を笑いはしない」


「ならば何故、この者たちの側にいる」


「調べたのだ。各地の予言書の異変を。護り手の内で、何が起きているかを」


静かな声だった。静かで、重い。


「貴殿は薄々感じているはずだ。連絡の途絶は『不調』ではない。意図的なものだ」


「何を根拠に――」


セリナが手帳を広げた。エコノミアの管理局で写し取った、報告書の書き換え。複数年にわたる改竄の痕。


「中央への報告書が書き換えられていた。一箇所じゃない。組織的に、何年もかけて」


ヴィンセントの目が記録の上を走る。手帳を受け取った手が震えていた。ナディアが傍証を重ねた。聖女の街、鏡の街――複数の都市で、同じ構造が確認されている。


「……これが、本物だという証拠は」


「あなたの目で見なさい」


セリナの声は冷たいほど落ち着いていた。「管理官の筆跡と、書式番号。護り手の内部文書よ。偽造するなら、もっと上手くやる」


一拍おいて、付け足す。


「――偽造の成功率なんて、三割にも届かないけれど」


(数字を出した。まだ冷静だ。……いや、手帳の角をこすってる。冷静に見せてるだけか)


ヴィンセントが奥歯を噛んだ。


「……仮に、本当だとして。だとしても――秩序がなければ、もっと多くの人間が死ぬ。私は、それを防いできた」


「じゃあ、いまの命令は。誰を生かすためのものなんだ」


僕の問いに、彼の言葉が途切れた。





ヴィンセントの手が、剣の柄へ伸びた。


抜こうとしてじゃない。溺れる者が何かに縋るように。


「……私は、この剣で何を守っていた」


声が掠れていた。低く、ざらついて、途中で欠ける掠れ方だった。


「秩序か。――腐った秩序をか」


フィンが黙った。ナディアも口を閉じた。信じたものが足元から崩れる、その只中にいる人間へ、安い慰めを投げるほど二人は浅くない。


ナディアだけが小さく足した。


「私も、知った時は同じだった。理念派の理想が、歪んだ形で使われていると知った時――信じたものが崩れる恐怖は、分かる」


「ヴィンセント」


僕は声を張らなかった。演説をしたいわけじゃなかった。ただ、追われた相手に、同じ目の高さで話したかった。


「知ってしまったら、知らなかった頃には戻れない。それは、辛いことだと思う」


(偉そうなことを言ってる自覚はある。でも、嘘じゃない。ヨハンに教わったことだ。――それを僕が口にしていいのかは、分からないけど)


「でも――知った上で、どうするかは、自分で選べる」


一歩、彼に近づく。


「あなたが守りたかったものは、本当は何だ。組織の命令か。それとも――」


「……人を」


声が割れた。


「人を、守りたかった」


長い沈黙が降りた。


やがてヴィンセントの手が剣の柄を離れた。代わりに、胸元の徽章に触れる。


「……徽章は外さない。私は護り手だ。それは、変わらない」


間を置いて、続けた。


「だが――組織の命令と、私の判断が食い違った時。今回は、自分の目で確かめる方を選ぶ」


フィンが小声で呟いた。


「……いい顔になったじゃねえか、隊長さん」


ヴィンセントは部下に向き直った。


「私は一時、中央へ赴く。基地の指揮は副官に委ねる」


「隊長! それは――」


「連絡が絶えて十二日になる。その理由を確かめてくる。――それだけだ」


副官が敬礼した。声に不安が滲んでいる。それでも、ヴィンセントの目には今までと違う覚悟があった。


「……お気をつけて、隊長」





検問を抜けた五人は、中央聖塔への最後の街道を歩いていた。塔の影が、昨日より大きい。


「兄さん、記録の整理を急ぐわ。上層部に見せるなら、反論の余地がないように組まないと」


「頼む、セリナ」


手帳を開くセリナの目つきが鋭い。管理の力が、証拠を組むという新しい刃に変わっている。その集中の合間、同じ頁を二度確かめ直したのを、僕は見ないふりをした。


(僕にできるのは、彼女の力を信じることだけだ。……それと、倒れないように見ておくこと。管理者に倒れられたら、困るからな)


懐の予言書が温もりを帯びた。中央に近づいている。その実感の直後、冷たい震えが来た。温もりと冷たさの間隔が、また詰まっている。


(呼んでいる。でも、何かが邪魔をしている。邪魔しているのは――上層部か)


ヴィンセントが前を向いたまま口を開いた。


「クレイン。一つ聞く」


「何だ?」


「上層部に会って、証拠を突きつけても――考えを改めなかったら。どうする」


一瞬、言葉に詰まった。ついさっきまで、この男に追われる側だった。その男と、いま並んで歩いている。世界は、奇妙だ。


「……たぶん、乗り越える。許可を待たずに、自分たちで先に進む」


「それは、秩序の否定だ」


「うん。でも――知った上で選ぶなら、それでいい」


ヴィンセントは答えなかった。


だが、足は止まらなかった。


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