第21話:灯りのない街で
管理都市エコノミア。門は開いたままだった。門番はいない。灯りも、消えている。
告示の板に「本日の行動指針」の枠だけが残っていた。文字のない紙が風にめくれて、乾いた音を立てる。日付は二週間前で止まったままだ。
大通りに足を踏み入れる。人はいた。ただ、誰も動いていない。ベンチで虚空を見る男。店先に突っ伏した女。みんな、次の指示を待っている。
店先の女の襟に、色別の仕分け札が貼られたままだった。管理が止まっても、札は剥がされない。次の仕分けに来る誰かを、まだ待っているみたいに。
(鏡の街の静庭を思い出す。あれは管理された静けさだった。ここは――管理が止まった静けさだ)
「情報の中心が先よ」
セリナの声は硬い。けれど的確だった。管理局の執務机に、ひとりの男が座っている。文字のない指針表を前に、ペンを握ったまま三日動いていないという。
「行動指針が、来ないのです」ルーカスがゆっくり顔を上げた。「二週間前から。私は……何を書けばいいのか」
フィンの声に棘が混じった。「で、あんたはそれから二週間、ずっとそこに座ってんのか」
隣を見ると、フィンの横顔からいつもの軽さが消えていた。故国が崩れたときも、きっとこういう光景があったのだろう。
セリナが記録を調べ始めて、間もなく手を止めた。
「中央への定期報告が書き換えられてる。半年前から」
声は冷たい。ただ、爪の端を親指でこすっている。地方の原本には「予言書に矛盾を確認」。中央への送付版には「運営は順調」。半年分、すべて。
「上からの指示です。些細な問題は地方で処理せよ、と……」
セリナが送付版の束を繰った。「……これ、半年分ぜんぶ、同じ花押が通してる。地方の判じゃない。もっと上の、たった一人の手よ」
誰の花押かは分からない。それでも――「中央」「上層部」としか呼べなかった顔のないものが、ひとりの人間の輪郭を、わずかに持った気がした。
ルーカスが目を伏せる。僕は記録を見つめた。誰かが、わざと予言書に正しい情報を渡していない。その誰かには、名前がある。
そのとき、地の底から金属の軋みが這い上がってきた。
◇
石畳が持ち上がり、鎧のような機構体が穴蔵から這い出る。巡回甲冑――予言書と連動して街を守った旧時代の遺産。制御はもう途絶えている。
剣が石畳を砕いた。
「やべえ! 見境なしだ!」
フィンが住民の腕を引いて路地へ飛び込む。「壁際を走れ! 大通りは狙われる!」――瓦礫の街を駆け抜けた動きが、身体に刻まれている。
セリナが僕の袖を掴んだ。「地下に操作の仕掛けがあるはず。手で止められる。私が行く」
「一人で――」
「大丈夫じゃないけど、他に誰がやるの。兄さんは人を集めて。あの子たちに、走れって言って」
セリナが階段を駆け下りる。僕は大通りへ飛び出した。
「逃げろ!」
叫んでも、住民は動かない。「指示が来ていない」「指針がないのに動いていいのか」。剣が空気を裂いても、足が止まったままだ。
道の真ん中に、少女がひとり立っていた。十歳くらい。泣いても、怒ってもいない。
甲冑が少女に向き直る。僕は走った。抱えて転がると、剣が石畳を叩き、破片が頬を掠めた。
体勢を立て直す間に、甲冑がもう一度剣を振り上げる。避けきれない。だが刃は僕の頭上で淀み、狙いを失って、大きく逸れて落ちた。まるで、斬る先が見つからないみたいに。
気のせいだ。そう思って、少女に向き直った。
「大丈夫か。怪我は」
少女――リタは、乾いた目で僕を見た。
「……お兄さん。私、何をすればいいの。指針が来ないの」
(怖がっているんじゃない。何を感じればいいのかすら、分からないんだ)
「……僕の予言書はね、困ったことしか書いてくれないんだ。どうすればいいかは、一度も書かれたことがない」
見ず知らずの相手に予言書のことを明かしたのは、初めてだった。リタの目が見開かれる。
「困ったことだけ……? じゃあ、どうやって朝起きてるの」
「怖かったよ。今も怖い。でも――自分で決めるんだ。間違えたら、そこからまた決め直す。それだけだよ」
「間違えても……いいの」
「いいんだよ。指針なんかなくても、君の足は動くだろ。走る方向は――君が決めていい」
リタが立ち上がった。膝が震えている。それでも足が、自分で方向を選んで、走り出す。
僕が動かしたわけじゃなく、リタが自分で走ったことが、そのまま隣へ、その隣へと伝わっていく。住民が、ひとり、またひとりと動き始めた。
フィンがルーカスの襟を掴んで引き起こすのが見えた。「おいオッサン! 指示は来ねえ。あんたが決めろ!」
ルーカスの手が震えている。――でも、甲冑に追われて転ぶ老人が目に入った瞬間、その目が変わった。
「……南門へ避難を! 私が、私の判断で南門を開けます!」
声が裏返っていた。格好悪い。それでも、三十年分の重さがあった。
地下からセリナの叫び。「引き棒を手伝って! 同時に引かないと止まらない!」
ルーカスの声で動いた部下たちが、階下へ走る。号令が響いた。「三、二、一――今!」
地上で、残りの甲冑が一斉に止まった。
上がってきたセリナの手に、血が滲んでいる。それでも足を止めず、指示を継いだ。「逃げ道を確保して。負傷者は重い人から。蔵の鍵を開けて、食料と水を」
(セリナの声が、僕以外の人にも届いている。あの声は、いつも僕だけのものだった。少し寂しいと思うのは、変だろうか)
僕ひとりを守るための声が、今は街を動かしている。
◇
南門の外。住民たちが、自分の手で焚き火を起こしていた。小さいが、自分で灯した火だ。
誰かが欠けた椀に湯を注いで回してくれた。薬草を煮ただけの、苦い湯。それでも掌の中で、じんと温い。指の先が、やっと戻ってくる。
「情報が間引かれてた」セリナが声を落とす。「中央予言書が正しく動くには、正確な情報が要る。それが断たれたら――」
「予言書は判断できなくなる」僕は呟いた。「殺したんじゃない。目隠しをしたんだ」
胸の予言書が冷たく震えた。中央にいる何かが、情報を求めて叫んでいるのかもしれない。
翌朝。南門にルーカスが立っていた。手には、手書きの避難名簿。
「あの沈黙は、私にも責任がある」
「でも昨日、自分で南門を開けた。あれは指示じゃなかった」
微かな笑み。壊れかけだが、自分で作った表情だった。「……ええ。怖かった。でも――足は、動いた」
◇
北へ歩き出して、間もなくのことだ。前方に人影が見えた。灰銀色の髪、旅装、腰に剣。
フィンが最初に気づいた。「……おい。あの後ろ姿、見覚えがある」
セリナが身構える。「兄さん、下がって」
ナディアが振り返り、三人と目が合った。一拍の沈黙のあと――剣を鞘ごと外し、地面に置いた。
「……久しいな、エル・クレイン」
声は硬い。だが、敵意はない。
(あの夜、斬りかかってきた人と同じだ。でも、目が違う。あの時は何かに追い詰められていた。今は、自分の足で立っている)
ナディアは先に情報を差し出した。護り手の関所の位置。巡回の間隔。そして各地で見つかった、あの報告書と同じ書き換え。
セリナの目が細くなる。「……どこでこの情報を」
「聖女の街、鏡の街。貴殿たちと同じ道を辿った。各地の予言書の異変を追っていた」
ナディアが、僕を真っ直ぐ見た。
「あの時の判断は誤りだった。貴殿たちは、私が思った相手ではなかった」
歪みではなかった――僕は胸の内でその言葉をなぞる。ナディアが言ったのは「敵ではなかった」の意味だろう。でも僕の中でそれは、ずっと自分に貼られていた札が、そっと剥がされる音に聞こえた。
胸の予言書が微かに温もった。あの夜の――「悲しい」と「寂しい」の感触が蘇る。敵意じゃなかったんだ。あれは。
「あなたも知りたいんだろう。中央で何が起きているのか」
「……ああ」
一言だけ。その一言に、あの夜以来の全部が詰まっていた。
セリナが腕を組む。「……ついてくるなら勝手にすれば。ただし兄さんに剣を向けた瞬間、次はないわ」
フィンが肩をすくめる。「お前さん、あの時から迷ってたろ。やっと決めたか」
「一緒に来てくれ」僕は言った。「護り手のことを一番知ってるのは、あなただ」
ナディアが剣を拾い、腰に戻す。僕たちは四人で、北へ向かう。
街道の先に護り手の旗が翻っていた。ナディアが足を止めず言う。「あの関所は避けられる。裏道を知っている」
北の空に、中央聖塔のシルエットが浮かんでいる。予言書を目隠しした者たちがいる。僕たちは、その目隠しを外しに行くんだ。
隣を歩くセリナが、黙って記録手帳に何か書き込んでいた。
「管理都市脱出:成功。中央到達予定:不明。生存確率:計算不能。備考――」
ペンが止まる。そして、小さく書き足した。
「四人とも無事」
フィンが覗き込む。「おー、セリナの手帳に感情が混じってんの、初めて見た」
「記録の一種よ。……見ないで」
手帳を胸に抱える。耳が赤い。ナディアが、怪訝そうにこちらを見ていた。




