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第20話:鏡写しの選択

街道の先で、土煙が膨らんだ。フィンが顎をしゃくる。エルとセリナは、言われるより早く荷馬車の陰へ回り込んでいた。


護り手の小隊が、揃った具足を鳴らして通り過ぎていく。蹄の音が谷向こうへ薄れても、三人は動かなかった。


数拍。フィンが先に足を出し、エルもセリナも黙ってついていった。


谷の縁に立った瞬間、エルは目を疑った。


同じ谷の両斜面に、まるで性質の違う二つの街が向かい合っている。片側は白壁の家が定規で引いたように並び、反対側は色とりどりの看板と洗濯物が風にはためく。その真ん中を、黒曜石じみて滑らかな巨大な壁が縦に貫いていた。


「双子都市ジェミニ……予言書に従うか否かで街が割れた、二百年越しの喧嘩の跡よ」


セリナが手帳を開きながら言う。エルの懐で、予言書がかすかに温かい。道しるべの温度だ。面白そうだ、と胸のどこかが騒いだ。


東地区「静庭」は、息が詰まるほど静かだった。白壁の家並み。揃いの淡い服。落ち葉一枚ない石畳。エルの村を、もう一段こしらえ直したような世界だ。


門の男は、顔を見るより先に革綴じの帳面を差し出した。「旅人、三名。滞在の日数と、目的を」――返事を待つより早く、ペン先は次の欄で構えていた。


通りで、すれ違った女が会話の途中でふと腰を折る。花壇の鉢の傾きを直し、何事もなかったように話へ戻った。この街の反射らしい。


水場で一杯を頼むと、言い終わらぬうちに「冷たい方、常温、どちらを」と返ってくる。顔より先に、用意された手順が出てくる街。――丁寧が、無色だった。


(綺麗だ。でも、この感じ……あの窮屈さに似てる)


「整然としているわね。管理体制としては、理に適っているわ」


セリナの手が、いつのまにか手帳から離れていた。書き留める用事が減ったのかもしれない――治安も、道順も、水場の作法も。


(……今のセリナ、肩の力が抜けてた)


視線に気づいたセリナが、手帳を開き直す。その動作だけが妙に急いでいた。エルは見た。けれど、口にはしなかった。


フィンが首をかしげる。「綺麗だけどよ、酒場が見当たらねえ。どうなってんだこの街」


壁の通用口を抜けると、西地区「雑庭」は空気からして違った。値切り合う声、焼き魚の匂い、でこぼこの石畳を駆け抜ける子供。西地区の長ヒルダが豪快に笑い、酒を突き出す。フィンが間髪入れず受け取った。


受け取った直後、通りで子供が転んだ。ヒルダは話を止め、身体ごと声のした方へ向く。「坊主、手ぇ見せな」――腕を取って傷を検めてから、こちらの話へ戻ってきた。


(……東と、逆だ)


どちらも正しくて、どちらも足りない。


壁の根元に、小さな泉があった。壁の番人を名乗る老人――ヨハンが、しわがれた声で言う。


「この泉を覗けば、見えるじゃろう。『選ばなかった自分』がな」


「番人さんは、東と西、どっちの人なんですか」


「どっちも――生まれは東、窮屈で西へ、草臥れてまた東へ。行き来の果てに、選べんようになった」


「わしは両方を見たかった。だから壁の真ん中に立った。……でもな、坊主。真ん中からは、どちらの景色も半分しか見えん」


泉へ案内する道すがら、ヨハンがぽつりと漏らした。「近ごろ、護り手でもない女が一人、通っていった。腰に剣を提げておったが、壁の前で立ち止まりもせず、北へ抜けた。……あの女は、迷わなんだ」


エルは聞き流した。今は、泉の方が気になっていた。





泉を覗こうとして、覗き込む手より先に、足が半歩、後ずさっていた。何が映るのか、身体の方が先に怯えている。エルは息を整え、水面へ顔を寄せた。


映ったのは、村に残った自分だった。


加護圏の外へ弾かれる書状も、予言にない雨も、あちら側では起きなかったらしい。村はそのまま続いていて、あの自分は穏やかに薬草を摘み、マーサ婆さんに挨拶をし、昼にパンをかじる。近所の娘と笑い合い、小さな家の前で夕焼けを眺めている。


傷がない。危険もない。セリナもフィンも、いない。


――村のエルの目に、光がなかった。


穏やかで、けれど何かを探すのをやめた目。空を見上げる回数が、あの頃より減っている。


(あいつは……幸せなのか?)


ナディアに追われた夜。聖女の街で気づいたこと。フィンと酒を酌み交わした夕暮れ。痛みごと全部、あちら側の自分にはないものだ。


そして、気づいた。村のエルもまた、泉を覗いている。向こう側から、旅に出た自分を見つめ返している。


(あいつも、もしもを見ているんだ)


セリナが、次に覗いた。一瞬で顔が強張り、すぐに目を逸らす。


「……くだらない幻影ね。精度の低い予測に基づく、架空の映像――」


言葉が途切れた。唇を引き結ぶ。その先の数字は、出てこなかった。


(セリナは何を見たんだろう。……聞けない。まだ、聞けない)


フィンが覗いたとき、笑顔が消えた。


長い沈黙。エルが「フィン……」と呼ぶと、いつもの顔に戻る。「いい夢を見せてもらったぜ。……でもまあ、夢は夢だ」


声が、わずかに震えていた。エルもセリナも、それ以上は踏み込まなかった。





東地区の長イルマと西地区の長ヒルダが、壁越しに顔を揃えた。長年の慣例で、旅人に審判を求めるのだという。どちらの暮らしが幸福か。


セリナが即答した。「東地区の平均寿命は西より12%長い。犯罪の割合も87%低い。数の上では、東が優位よ」


「へえ」フィンがにやりと笑う。「お前さん、さっき泉で東の自分を見て、少し羨ましそうだったぜ。数の話か? それとも本音か?」


セリナの手が止まった。「……統計の話よ」。けれど、次の数字は出てこない。


フィンは「西だ」と言い張る。どちらも本気で、どちらも答えになっていない。


長たちの視線が、エルに集まった。審判を、と。


「――僕は、審判しません」


失望の気配が、さざなみのように広がる。それでもエルは、村の自分をもう一度思い浮かべて、続けた。


「でも、一つだけ分かったことがあります。泉を覗いたとき、僕は『村に残った自分』を見ました。あの自分は幸せそうだった。……でも、あの自分も泉を覗いていた。『旅に出た自分』を見て、きっと同じことを思ってた」


イルマの表情が動く。ヒルダが腕を組み直す。


「どちらを選んでも、『もしも』は消えない。壁のこっち側にいても、向こう側が気になる。……たぶん、壁のせいじゃないんです。『選んだ』から、消えないんだと思う」


息を吸う。


「だから僕は、壁を壊してくれとは言いません。壁があっていい。『もしも』があっていい。でも、僕はこっち側を選ぶ。傷だらけで、格好悪くて、正解かどうかも分からないけど――この旅を、選び直します」


イルマが微笑んだ。「二百年で初めてよ。壁を壊さなくていいと言った旅人は」


ヒルダが声を上げて笑う。「生意気だ。でも、嫌いじゃないよ」


壁越しに、イルマが手を伸ばす。ヒルダが向こう側から手を重ねた。触れられない。それでも、手を伸ばすことはできる。





その夜。壁際の宿で、フィンが窓辺に腰かけて星を見ていた。いつもの軽さがない。


エルは、隣に座った。


「フィン。……さっき泉で、何を見たんだ?」


長い沈黙。虫の声だけが、部屋に満ちる。


「……故郷だよ。滅びなかった故郷。親父とお袋と、妹が、飯を食ってた」


エルは何も言えなかった。自分もセリナも、「選ばなかった」だけだ。フィンは「奪われた」のだ。慰めの言葉なんて、出せるはずがない。


「お前さんの答え、良かったぜ。『もしもがあっていい』ってやつ」


フィンの声が、低く続く。


「……俺のもしもは、もう取り戻せねえ。でもまあ、あっていいなら――たまに思い出すくらいは、許されるだろ」


(フィンの声が震えていた。泣いてはいなかった。でも、笑ってもいなかった。僕が見たことのない、フィンの素顔だった)





翌朝。ヒルダが見送りに来た。東地区の窓からも、小さく手を振る影がある。


壁の前に座り込んだヨハンが、独り言のように呟いた。「あの若いのは、壁を壊さなかった。……でも、壁の前で立ち止まらなかった。わしとは、違う」


フィンがいつもの調子で伸びをする。「さーて、次はどこだ? セリナの最短ルートで頼むぜ」


「最短は東よ。でも――」


セリナが一拍の間を置いた。エルを見る。


「兄さんの『勘』は、どっち?」


(……いつもは自分で決めるお前が、僕に聞くのか)


「……北かな。なんとなく」


懐の予言書が、温かい。道しるべの温度だ。三人が歩き出す。


(あいつには悪いけど、僕はこっちを選ぶよ。何度でも)


ふと、予言書を開いた。頁の隅の黒い染みが、歓楽都市の頃よりさらに広がって、最初の行に触れかけている。エルは、そっと閉じた。


北の空に、暗い雲が見えた。予言書が微かに――温もりではなく、冷たい震えを帯びる。


何かが、壊れ始めている。


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