第19話:過剰な善意の檻
白亜の街は、傷だらけの三人には眩しすぎた。
門の前の女性が、こちらを見て目を丸くした。白い衣装。胸元には小さな星型のバッジが二つ。修道服めいた簡素さが、朝日に透けて揺れている。
「あ、あの……旅の方ですか? お、お怪我を――!」
応急手当に必要だと水を汲みに走って、戻ってきた時には器の半分をこぼしていた。熱心だが不器用だ。でもその不器用さが、ナディアに追われてからずっと張り詰めていた何かを、ほんの少しだけ緩めてくれた。
「どこが一番痛みますか? 何が必要ですか?」
(……聞いて、くれるんだ)
他の街では問答無用で処置台に乗せられたり、宿を押しつけられたりした。この人は、まず聞く。
「フィンの肩が限界で。あと薬草と、防寒具も失くしたから――」
「分かりました! こちらへ」
女性が案内に踏み出した、その瞬間だった。白い衣装の一団が足早に寄ってくる。顔は心配そうに作られている。でも、目の奥の色が違った。
「あら、旅人さん? 私が手当てしますわ」
「いえ、私の方が治療バッジを三つ持っていますから」
「傷だらけの旅人なんて何年ぶりかしら。善行の格で言えば、上の上で――」
(……いま、格って言ったか)
善意を、格付けしている。違和感が背筋を撫でた。でも疲労の方が先に立って、深追いする気力が湧かない。
「あ、あの、この方たちは、私が最初にお声がけしました……」
怯えながら、門番の女性が言い張った。聖女たちの視線が、いっせいに彼女の胸元へ――バッジ二つへ集まる。
「あら、メアリーが?」「せっかくの旅人さんなのに」
落ちこぼれに横取りされた、という顔。それでも「先に声をかけた者が担当する」という決まりだけは絶対らしく、彼女たちは渋々と離れていった。
フィンが小声で言う。「あの嬢ちゃん、すげえ嬉しそうだったぞ。で、周りの連中はすげえ悔しそうだった」
セリナが手帳を開いた。記録の構えだ。
◇
治療は的確だった。フィンの肩を診た手つきは一流で、失った薬草もすぐ補われ、宿も食事も無償で差し出される。
「こんなに良くしてもらって……何かお礼を」
「いえ! これが私たちの務めですから。対価はいりません」
メアリーの笑顔は本物だった。なのに、どこか張り詰めている。
(借りを作っている感覚が、消えない)
賭場では稼いで宿代を払った。世話になった相手には、何かしら返してきたつもりだ。ここでは――何を返せばいい。
礼を言いながら、僕の目はさっきから部屋の隅をなぞっていた。扉の位置。窓の外へ伸びる街道の方角。確かめている自分に、一拍遅れて気づく。白くて、清潔で、危険なんて一つもないはずの部屋で、この癖だけが抜けない。
(――次に会う時までに、か)
ナディアの声が一度よぎって、消えた。
フィンは治療を受けながら、相手の目だけを読んでいた。終わると「ありがとよ」とだけ言う。形だけの善意には、形だけの感謝を。彼なりの距離の取り方だ。
「無償の善意ほど高くつくものはないわ」
セリナが小声で言い、手帳に街の造りを書き留めていく。
メアリーが宿の支度をしながら、ふと口にした。
「少し前にも、旅の方がいらしたんです。灰色の髪の、厳しい目をした女性で……」
手が止まった。セリナの筆も止まる。
「同じことを聞いていました。予言書のこと、中央のこと。あの方はバッジに興味がなくて、記録所の古い帳簿ばかり調べて……」
メアリーは思い出すように目を細める。僕は疲労の底で何かが引っかかったのに、言葉にならないまま流れていった。
◇
街の異常は、段々と浮かび上がってきた。
フィンがわざと躓くふりをした途端、四方から五人の女性が駆け寄る。フィンが怯んで後ずさった。
「助けたい人が多すぎるのよ」セリナが淡々と言う。「助けを必要とする人の数に対して」
少し先では、若い聖女が二人がかりで老人の荷物を奪い合っていた。当の老人は疲れきった顔で虚空を見ている。「……断ると、あの子らの徳が下がるからな。黙って世話になるしかないんじゃ」
別の一角では、老婆が何度も頭を下げていた。聖女が入れ替わるたび、「ありがとうございます」を繰り返す。下げ続ける背が、下げた姿勢のまま少しずつ沈んでいく。感謝というより、繰り返し覚え込んだ作法に見えた。
フィンが顎で聖女たちの胸元をしゃくる。「あの星、数が多いほど偉いんだとよ。裏を返せば――あの婆さんに一番礼を言わせた奴が、一番の善人ってわけだ」
「助け手が、受け手のざっと四倍」セリナは顔を上げない。「これだけ余れば奪い合いになるわ。頭を下げてくれる相手が、足りていないもの」
「善人の飢えた街、か」フィンが鼻を鳴らした。
メアリーは、バッジを見せ合う聖女たちを見ていなかった。頭を下げ続ける老婆を、遠くから見ていた。二つしかないバッジを、隠すように手で触れながら。
――そのメアリーが、翌日倒れた。
僕たちの世話を完璧にやりきろうとして、朝から晩まで走り回った末に。
「いけません……私が、私が世話をされるなんて……」
水を飲ませようとすると、青ざめた顔で拒まれる。
「私が助けられる側になったら、私は『聖女』じゃなくなってしまう! バッジが……私の値打ちが……」
「君は……自分が辛い時は、誰にも助けてって言えないのか」
言ってから、気づいた。
(――今の言葉。そっくりそのまま、僕に返ってくるやつだ)
セリナに守られて、フィンに助けられて。「ありがとう」は言う。でも「僕がやる」とも「助けて」とも、言ったことがない。受け取るだけで、差し出さない。メアリーさんと僕は、向きが逆なだけの、同じ病だ。
◇
「無駄が多い考え方ね」
セリナがベッドの脇に立った。手には記録の羊皮紙。
「あなたが門で私たちに声をかけた時、まず聞いたわ。『何が必要ですか?』って。あの時だけ、あなたはバッジを忘れていた。そしてあの時のあなたの奉仕は――一点の曇りもなかった」
メアリーが目を見開く。
「あなたが『落ちこぼれ』なのは、相手の話を聞いてしまうから。他の聖女が問答無用で善行を片づける間に、あなたは立ち止まって聞いている。この街の決まりでは、それは損。でも――」
一拍、間があった。
「善意としては、あなたの方が正しいわ」
セリナの声が、少しだけ柔らかくなる。
「私が兄さんを助けるのは、それが私の利になるから。自己満足よ。でも、その自己満足は誰にも左右されない。バッジも評価も関係ない。……自分のために、人を助けてもいいの」
その言葉の途中で、セリナの目が僕に向いた。ほんの一瞬。すぐにメアリーへ戻す。
フィンは壁に寄りかかったまま、その一瞬を静かに見ていた。にやりとはしない。ただ、見ていた。
「バッジのためじゃなく……私が、やりたいからやる……? そんなの、許されるんですか」
メアリーの涙が溢れた。
「許すも何も、僕たちはメアリーさんに助けてもらって、嬉しかったよ。バッジがどうとか、関係なく」
素朴な言葉だ。でもメアリーにとっては、初めて「善行の対象」ではなく「一人の人間」として礼を言われた瞬間だった。
◇
翌朝。門の前で、メアリーが見送りに立っていた。
胸元のバッジは、外されている。身軽になった白い衣装が、風に揺れた。
「教会に返してきました。重かったので」
二つしかなかったのに、「重かった」と言う。足元に寄ってきた痩せこけた野良猫へ、ポケットから干し肉を取り出して与える。予言書は、開こうともしない。
「私、案内役を続けます。門に立っていれば、旅人さんに最初に声をかけられるから。『何が必要ですか?』って、聞けるから」
(善意って、本当は簡単なことのはずなんだ。目の前の人に、何が必要かを聞くこと)
(……僕は、セリナやフィンに聞いたことがあっただろうか。次は、僕から聞こう)
フィンが肩をすくめた。「押しつけがましい善意ほど、タチの悪いもんはねえ。……でもまあ、あの門番の嬢ちゃんの善意は、本物だったな」
三人が歩き出す。セリナは何も言わず前を向いていた。閉じた手帳を持つ手が、一瞬だけ自分の胸元に触れる。バッジはない。けれどそこには、祖母の形見のペンダントがある。その手はすぐに離れた。何だったのか、僕には分からなかった。
街道を歩いてしばらく、背後から蹄の音が追ってきた。
護り手の早馬だった。白い道に土埃を巻き上げ、三人を追い越していく。北へ――遠ざかる背中は、瞬く間に小さくなった。
僕たちより、速い。
僕の予言書が、微かに応えた。頁が温かい。次の目的地の方角を指す、道しるべの温度だ。しかし同時に、空白の頁が一瞬だけ明滅した。
その温もりの差す先は、早馬が消えた北の空と同じだった。あの白い背中は、僕たちより先に、そこへ着いている。




