第18話:静かな剣(後編)
崖道の入口は、砂塵に半分隠れていた。
フィンが袋から薬草の粉を掴み、風上へ撒いた。粉は風に乗って、僕たちの走る先とは別の方向へ流れていく。
「俺たちがあっちへ逃げた、ように聞こえる位置に煙を置く。風と岩壁の反響で、しばらく方角は掴めない」
セリナが目を見開いた。
「それ……地形の読みと風向きの計算、両方やってる」
「ただの癖だ。褒めなくていい」
声は軽い。けれど視線は、もう次の岩を選んでいる。崖道を支える、細い支柱の岩を。
「セリナ、エルを先に。俺が最後だ」
セリナが僕の背を押した。
「兄さん、振り返らないで。前だけ見て」
崖道は、人ひとりぶんの幅しかない。岩壁が肩を擦る。後ろでフィンが何かを蹴る音がして、重く岩の崩れる音が続いた。入口が半分、塞がっていく。
荷が引っかかって、セリナが一瞬だけ立ち止まる。
「メモと、防寒具と、薬草の備え……最低限だけ」
予言書と、書き写したメモと、応急の袋。それ以外は、崖の下へ落ちていった。見送る時間はなかった。
走りながら、一度だけ振り返った。落石の向こうで、女は剣を交えながら、こちらを見ていない。見ていないのではなく、意図して視界を切ったのだと、走りながら気づいた。
すれ違いざまに聞いた声が、耳の奥で追いついてきた。走れ、の後に、女は確かにこう続けていた。
「次に会う時までに、その資格があるか見極める。……もし貴殿が本当にあの徴を持つ者なら、逃げずに証を見せなさい」
そして最後に、名を。
「――ナディア。私の名だ。憶えておきなさい」
応える時間はなかった。崖道を抜ける直前、砂塵の切れ間で、女の目とこちらの目が、ほんの一瞬だけ合った気がした。何かを確かめようとして、果たせなかったような――奇妙な目だった。
あの目は、何だったんだろう。
考えるより先に、フィンが背中を押した。
◇
崖道を抜けた先は、山の反対側だった。砂が薄れ、灰色の岩の代わりに、痩せた草が斜面へ張りついている。追手の気配はない。少なくとも、今は。
岩陰に、倒れ込むように腰を下ろした。
フィンが片膝をついたまま、肩を押さえている。布が、そこだけ濃く色を変えていた。
「……強かったな、あの騎士さん。俺が見た中でも、三本の指に入る。本気じゃなかったってのが、余計に笑えねえ」
「本気じゃ、なかったの」
セリナが顔を上げた。
「ああ。剣の重さを抑えてた。間合いも、殺すためのもんじゃない。俺を打ったのも、刃じゃなくて柄頭だ」
「……気づかなかった」
「気づかなくていい。気づく余裕があったら、それはもう堅気じゃねえ」
軽く笑って、フィンが声を一段落とした。
「しかし最後、エルの予言書を見たときのあの目。『見えちゃいけないものを見た』って顔だった。あれは、何だったんだろうな」
セリナが応急の袋を開いた。残っているのは、この一袋と、予言書と、書き写したメモだけ。
セリナの手が、フィンの肩の布を切る。手つきは正確だ。正確なのに、いつもより一拍ずつ遅い。完璧な手技に、細いヒビが入っている。僕はそれに気づいて、指摘しなかった。
「……ありがとな」
フィンの礼に、セリナの手が一瞬止まって、また動きだす。
「このままだと、肩、動かなくなる。応急じゃ足りない。ちゃんとした治療が要る」
冷静な見立てが冷静ではない口調で出ていた。
ほどなく日が落ちてきた。山間の夜は早い。焚き火にする薪もない。三人で岩陰に身を寄せ合う。互いの体温だけが、暖と呼べる唯一のものだった。
「……僕たちって、こんなに弱かったのか」
笑えなかった。セリナが、僕の隣に座る距離を、いつもより半歩ぶん詰めた。寒さのせいだと、自分に言い聞かせた。
「弱いかどうかは、問題じゃない。問題は、次に何をするか。まず治療と補給。戦略は、その後」
フィンが岩に背を預けたまま、低く笑った。
「まあ、生きてりゃ御の字さ。……俺の国にも、似たようなことがあった。圧倒的な力の前で、何もできなかった時が。あの時は、仲間が、いなかった」
仲間、という言葉を、フィンが初めて口にした。
「まあ、今は三人いるからな」
すぐに軽く流した。流したけれど、その軽さの裏に、何かの影が差していた。
聞きたい。でも、何を聞けばいいのか分からない。こういう時に気の利いた一言が出てこないのが、僕のいちばん駄目なところだ。
砂塵の隙間で合った、あの目が浮かんだ。どうして浮かんだのかは、自分でも分からなかった。
風が一段、弱くなる。岩の向こうで、鳥が一度だけ鳴いた。獣の気配が、戻ってきている。
◇
夜明けは、思ったより早く来た。
岩陰から這い出して斜面の上に立つと、谷の底に、白亜の街が見えた。
朝日を受けて、屋根が眩しい。傷だらけの三人には、眩しすぎるくらいに。
「……あの街なら、治療も、補給もできるはず」
セリナが、自分の手の包帯と、フィンの肩とを見比べた。
「兄さん。行ける?」
「ああ。行こう」
声は弱い。それでも、止まらなかった。
予言書が腕の中で微かに温もった。あの街の方角を指している、と分かった。道しるべが、次の行き先を示す時の、あの感触だ。
勝てなかった。逃げるので精一杯だった。でも――予言書が剣を逸らした。あの徴が、彼女の手を止めた。
そこまで考えて、僕は止めた。
……いや、それはもう少し、後で考えよう。
谷から吹き上げる風が、頬に当たる。山の上の風とは、温度が違った。寒さの角が、不思議と丸い。
その風に、覚えのない匂いが混じっていた。乾いた石でも、砂でもない。何か、甘い。何か、温かい。何か――言い当てられないもの。
街の輪郭は、こんなに眩しいのに、思っていたよりも、ずっと遠く見えた。




