第17話:静かな剣(前編)
灰褐色の岩と、砂。
風が砂礫を巻き上げるたび、数歩先が白く霞んだ。空は低い雲に潰されて、太陽がどこにあるのかも掴めない。岩の影がふいに人の形に見えて、そのたびに心臓が跳ねる。
冷気が鼻の奥を刺した。指先の感覚が、少しずつ遠ざかっていく。腕に抱えた予言書だけが、僕の体温を分けてもらったみたいに、ほのかに温い。
図書館を出てから、フィンは一度も足の運びを崩さなかった。追手の足音は、風に紛れて僕には拾えない。けれどフィンの背中が、それを代わりに拾っている。
「……獣まで、逃げたか」
足を止めて、フィンが低く言った。
野兎の跳ねる音も、鷹の影も、虫の羽音すらない。あるはずの音が、まとめて抜け落ちている。獣が距離を取るというのは、獣より恐ろしい何かが、この山にいるということだ。
予言書が光り始めた。熱いのではない。空白の頁が、内側から照らされている。図書館以来の反応――いや、あの時より近い。文字の浮かばない紙が、ただ静かに強張っていくのを、僕は見ていた。
「気配は、図書館を出た時のまま。東と北からも来てる」
フィンが声を落とした。
「だが、こっちに寄せてるのは少数だ。先回りの斥候だな。本隊は別の谷を流してる」
少数。それでも、僕たちには多すぎた。
「二人とも――下がれ」
いつもの軽さが、その声からごっそり抜けていた。
次の瞬間、砂塵の向こうから、白銀の軌跡が、音もなく閃いた。
◇
フィンが叫ぶより早く、僕の体は地面に倒れていた。フィンが押したのだ。刃は、さっきまで僕が立っていた場所を薙いで、岩を撫でて止まった。
斬り込んだのではなかった。剣の側面が、軌道の最後で岩に触れただけ。鋭さとは裏腹に相手の素性を探るような太刀筋だった。
砂の幕が剥がれて、女が現れた。
灰銀の髪。簡素な騎士装束は灰白で、岩肌にそのまま溶けている。怒りも殺意もない。「確認」という言葉を人の形にしたら、きっとこんな顔になる。ただ、その目だけが、僕たち三人の輪郭を一つずつ、確かめるようになぞっていた。
女の斜め後ろに、同じ装束が三人。退路を抑える位置に立っているのに、誰も剣に手をかけていない。女が指を小さく動かすと、三人はそこから動かなくなった。指揮の構えだ。
「書庫の封印を解いた者。身柄を確保する」
抑えた声だった。
「護り手の手先か。……だが、制服もない子供連れとは。擬装のつもりか」
問いかけている。けれど、答えを待つ気配はない。仮説を口に出して、自分の剣の動きと擦り合わせているだけだ。
「待ってくれ! 僕たちは護り手じゃ――」
「弁明はあとで聞く」
剣がしなった。僕へ向いた切先は、刃ではなく背を見せている。峰打ち。最初から、斬る気がない。
そこへフィンが割り込んだ。腰の短刀を抜き、女の剣の腹を下から擦り上げる。鋼と鋼の擦れる音が一つ鳴って、女が半歩、間合いを開けた。
「……短刀で受けたか」
女の声に、初めて小さな感心が混じった。
「修羅場の経験者か。だが――」
二合、三合。女の剣がフィンの肩口へ流れ、身を低くしたフィンの肩を、柄頭が打った。鈍い音。フィンが片膝をつく。
「平気だ、骨は――」
言い終わる前に、女はもう間合いを切っていた。仕留めにかかる動きではない。位置を取り直すための後退だ。
セリナが僕の袖を掴んだ。
「兄さん、フィンの後ろに」
数字で震えを塗り潰そうとして、塗りきれていない声。代わりに、目だけが女の足の位置と岩の死角を、せわしなく行き来している。
「子供二人と、修羅場の経験者一人」
女が独り言のように呟いた。
「護り手が擬装を試したにしては、芸が雑だ」
疑いを、そのまま口に出した。
僕は息を吸って、掲げた。盾にするためでも、脅すためでもなく――ただ、名乗るように。
「これは、僕の祖父から渡されたものだ。図書館で、僕の両親と、セリナの祖父母の記録を見た。それだけだ」
女の視線が、僕の顔から予言書へ落ちた。
落ちて、止まった。
表紙の古い紋様。一族の手で受け継がれてきた、由来も分からない徴。女の表情はほとんど変わらない。それでも、瞳の奥だけが、はっきりと揺れた。
「……それは。まさか、伝承の――」
低い声が、途中で切れた。
女は剣を下ろさない。振り下ろしもしない。三人のあいだの距離が、止まったまま動かなくなった。
◇
しばしの逡巡、しかし時を待たず、風下から、別の足音がいくつも湧いた。
砂を裂いて現れたのは、見覚えのある意匠の装束――護り手が、十人ほど。先頭の若い指揮官が、切先をまっすぐこちらへ向けた。
「理念派と、その共謀者か。両者、武器を捨てよ」
共謀者、という言葉が、僕の頭上を滑っていく。理念派、と呼ばれた女のほうが、その一語に小さく息を呑んだ。
「……仲間ではなかったのか」
僕に向けたのでも、護り手に向けたのでもない。自分自身へ問いかける声だった。
女が三人へ短く合図を送る。三人の手が剣に伸びた。けれど、四対十。それも本隊から切り離された四人と、隊を組んだ十人だ。数の差は、女自身が誰より分かっている顔をしていた。
女の中で、何かが組み直されていく。表情の角度がわずかに変わり、その体が、僕たちではなく護り手のほうへ向き直った。
剣がしなる。さっき僕へ向けた重みとは、まるで違う。鋭く、速い。先頭の剣を弾き、二人目の脛を払い、三人目の喉へ切先を伸ばす。背後では三人が二手に分かれ、それぞれ二人ずつを引き受けにいく。
さっき、あの剣は、僕を斬らなかった。
頭の隅でそう気づいてしまった自分が、嫌だった。
「フェルナだ! 理念派の――最優先で拘束しろ! 残りは少数だ、押し切れ!」
指揮官が叫ぶ。部下が散って女を囲む。僕たちにも目は配られているが、剣は女と三人に集まっていた。いちばん重い標的が向こうにある間だけ、僕たちは空白の中に置かれている。
その空白に、フィンが先に気づいた。
「エル、セリナ――今だ」
腕を引かれて、ようやく足が動いた。すれ違いざま、女が短く息を吐く。
「……走れ。崖道、右」
指示とも独り言ともつかない、削ぎ落とされた声。それでもフィンの足は、その一言で迷わず方角を選んだ。




