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第16話:閉ざされた記録

森の奥で、蔦の壁が行く手を塞いでいた。


マルタの示した座標は、ここで途切れている。苔むした石碑、崩れかけた入口――目の前にあるのは、どう見ても打ち捨てられた廃墟だ。


なのに、懐の予言書が熱を持ちはじめた。


頁も開いていないのに、確かに応えている。僕を導きたいのか、ただ利用したいのか、それすら分からないまま、僕は書を蔦にかざした。


淡い光が走る。覆っていた蔦が乾いた音を立てて崩れ、石の扉が軋みながら内へ開いた。


(……また、これだ。何かに呼ばれている)


「……本当に開いたのか」


フィンが半信半疑のまま、石段を降りていく。


地下は天井が高く、書架が何列も並んでいた。図書館だ。いや、図書館だったもの、と言うべきか。棚に収まっているのは書物ではなく、薄く光を放つ結晶の群れ。塵ひとつない。靴音が石壁に跳ね返り、何倍にもなって戻ってくる。その底に、低い共鳴音がずっと居座っていた。音と呼ぶには深すぎる、震えのようなもの。


「空気の乾き方、結晶の並びの規則……記録を保つためだけに造られた場所ね。三百年は、下らないわ」


セリナの声が、いつもより硬い。手帳を取り出すのが半拍遅れた。


「お宝の匂いがするぜ」


「埃とカビの匂いよ。それより、これだけの保管庫が手つかずで残ってる方が異常。仕掛けがある確率、低く見積もっても六割……」


「宝の山を前に勘定を始めるな、嬢ちゃん」


「勘定じゃないわ。安全管理よ」


軽口が続いたのは、そこまでだった。奥へ進むにつれ、フィンの顔から表情が抜けていく。


「……この造り、どこかで見た気がする。いや、気のせいか」


聞き返そうと思ったが、フィンはそれきり口をつぐんでしまった。


最奥に、扉があった。二重の封。刻まれた文字が、僕たちを試すように並んでいる。


『王の証と、星の鍵。二つ揃いし時、記録は語りかける』


予言書を掲げると、扉の半分が応えて熱を帯びた。そこまでだ。残りは、動かない。


「星の鍵って、なんだ」


フィンが問うより先に、答えが出た。


セリナの胸元で、銀の星が、息をするように光りはじめた。





「……嘘」


セリナが襟元から細い鎖を引き出す。星をかたどった銀の意匠――村で何度も見た、お祖母さんの形見だ。


「これ、お祖母ちゃんの形見よ。ただの――」


「セリナ」


呼んだときには、もう彼女の足は扉へ向かっていた。震える指で、ペンダントを刻印に当てる。封が薄く解け、扉が内へ開く。


開いた先の壁に光が走り、古い記録の文字が浮かんだ。整然と並ぶ名前の列を、僕は端から目で追って――途中でやめた。クレインの三文字を探そうとしている自分に気づいたからだ。今は、いい。


セリナは、もっと早くに見つけていた。


「……レイフォード」


自分の苗字を、他人の名前みたいに読み上げる。


「お祖父ちゃんと、お祖母ちゃん。理念派の、記録師として……」


そこで止まった。統計も、数値も、何も出てこない。指が白くなるほど、ペンダントを握り直す。


「……お祖母ちゃん、重いわよ。そんな大層なもの、私に黙って」


声は軽口の形をしていた。顔は、笑えていなかった。


「私がここにいるのは、偶然じゃなかったってこと? 兄さんの隣にいるのも、全部……仕組まれてたの?」


仕組まれていた――その言葉は、僕の喉にも刺さった。僕の予言書だって、誰かの仕組みの一部かもしれない。不吉ばかり示す癖も、こんな旅に出た運びも。


それでも僕は、首を横に振った。


「仕組まれていたとしても、セリナが僕についてきたのは、セリナが選んだことだろ。……たぶん」


「たぶん」がついてしまった。確信なんてない。それでも、その一点だけは、仕組みで片づけたくなかった。


セリナが息を吐く。いつもの口調に戻ろうとして、少しだけ失敗した声で言った。


「……当然でしょ。私がいなかったら、兄さん、三日で遭難するわ。確率九十八パーセント」


いつもの数字だ。いつもなら、それで話は閉じる。今日は、閉じなかった。ペンダントを握る指は、まだ白い。





最奥の祭壇が、光を集めた。結晶の振動が揃い、空中に薄い面影が浮かぶ。輪郭は曖昧で、けれど声だけは、はっきりと届いた。


『この記録を見ている者へ』


――父さんと、母さんの声だった。


セリナが手帳を取り落としかけ、慌てて拾う。フィンが浅く息を吐いて、剣の柄から手を離した。


『私たちは理念派と志を同じくしていた。予言書を、命令の道具から、対話の支点へ。そう変えられないかと、もがいていた』


祖父母の声がそこに重なる。


『私たちはその志の、記録と保全を担った。いつか王の証を持つ者が辿り着いたときのため、星の鍵を残した』


さらに別の声が少し遅れて滲んできた。父でも祖父でもない、もっと古く、淡い誰かの声。


『大いなる記述は、人の手には及ばない。だが――本来、それは独りではなかった』


隣でセリナが息を呑む。フィンの肩が、わずかに張りつめる。


『片割れが、姿を消した。三十年前のことだ。経緯は、ここにも記せていない。我々は、ただ止められなかった』


『残された方は、いまも独りで耐え続けている。届く声を、ずっと探している。古い書だけが、辛うじてその呼びかけを拾える』


『予言書を持つ者よ。残された方のもとへ、知らせを届けよ』


セリナがペンを握り直した。書きかけの線が震えて、それから、止まる。


「……届けよ、なんて。ずいぶん一方的ね」


管理の口調に戻ろうとして、戻りきらない声だった。


フィンが浅く笑う。


「神様も、人を選ぶってわけだ。世界の裏側で誰かが独り眠ってるなら、起こしに行く意味はあるさ。退屈よりは、ずっといい」


軽口の形をしていたが、そう言うときのフィンの目は、いつもより遠くを見ていた。


最後に、父さんの声がもう一度だけ流れた。


『私たちは間に合わなかった。けれど、道は残した。選ぶのは、あなただ』


光が揺らいで、消えた。


(……父さん。母さん)


立ち尽くす僕の脳裏に、不意にマーサさんの背中がよぎった。村が切り捨てられたあと、独りで灯を守って暮らす、あの背中。形が、同じだ。


――仕組まれていたとしても、選ぶのは、僕たちだ。その一点だけは、信じていい気がした。





頭上で、何かが軋んだ。フィンの手が剣に伸びるより先に、もう足が動いている。


「上だ。来てる。数は――多い。護り手か、別の何かかは分からん。けど、奇襲のつもりで動いてる」


「兄さん。記録にあと四分欲しい」


セリナの声に、震えはもうなかった。別種の硬さが戻っている。


「中央への道筋、届ける相手の在り処、封の解き方――全部は無理。優先度をつける。兄さんは扉を支えて。予言書を離したら、光が落ちる」


「分かった」


僕は書をかざし続けた。守られる側から、支える側へ。小さな転換だったが、そこには確かな重みがあった。


奥の壁の向こうから、フィンの軽い口笛が聞こえた。


「裏口あるぞ。こういう蔵は、必ず逃げ道を作ってある。……作った連中が、そういう連中だからな」


セリナの手は、結晶の前で止まらない。走り書きの字が荒れていく。普段なら直すのに、今日は直さなかった。頭上の足音が、近づく。複数。


「終わったわ。出るわよ」


書を扉から離すと、封がゆっくり閉じていく。振り返ったとき、結晶の光はもう消えかけていた。


(――もう、戻れない)


両親のこと。祖父母のこと。独りで残された、誰かのこと。知らなかったことにする、はもう選べない。


裏口の通路を抜ける間、背後で、封印が完全に閉じる重い音が響いた。





森を抜けたのは、昼を少し過ぎた頃だった。


追っ手の足音はもう聞こえない。それでもフィンは、警戒を解かなかった。開けた稜線の上で、三人とも肩で息をしていた。しばらく、誰も口を開かない。


最初に喋ったのは、僕だった。


「……僕たちの旅は、『中央に行って、村が圏外化された理由を確かめる』だったよな。マーサさんと、子供たちのこと。村の灯のこと」


「ああ。今もそれは変わらないだろ」


「うん。変わらない」


足元の石を見た。


「ただ、確かめる相手の輪郭が、少し見えただけだ。……独りで残されてる誰かのところにも、寄っていく」


声は大きくしなかった。中央に行くなら、結局は同じ道だ。


「『独りぼっちの神様に挨拶しに行く旅』ってことか。行き先が一つ増えても、道は同じだろ」


フィンが軽く肩をすくめる。


セリナはしばらく黙って、それから、いつもの管理の口調で言った。


「兄さんの旅に付き合ってるだけよ。目的地が増えても、私のやることは変わらない。隣で、最善の道を示す。それが私の仕事」


「……仕事って言うな」


「保護者のほうがよかった?」


「それも違う」


セリナが薄く笑った。笑ったあとで、少しだけ目を逸らす。


「……変わったな、エル」


フィンが、ぽつりと言った。風にまぎれて、辛うじて届く声。


「変わってない」


僕がそう返すと、フィンは笑い飛ばすでもなく、また肩をすくめた。


「ま、そう言うだろうと思ったよ。お前らに付き合うのは、退屈しなくて助かる。……それに俺も、その『大いなるなんとか』の正体は、自分の目で見ておきたい口だ」


最後の半分は、独り言のような小ささだった。聞こえなかったふりをしてやる方が、たぶん正しい。


そこから先の道は、登りだった。空気が冷え、風が砂塵を巻き、視界が霞みはじめる。


「気温の下がり方が急だわ。風も強い……このまま進むと、体力を削られる」


セリナが眉をひそめた。フィンが足を止める。


「それだけじゃない。追われてる。図書館を出てから、ずっとだ。気配は複数――手分けして、山を流してる動きだ」


懐の予言書が、これまでにない反応をした。空白だった頁に、たった一文字だけが滲む。読み取れない。歪んでいて、見たこともない文字のようだ。


それなのに、僕の手は震えていた。


護り手ではない。たぶん、別の何か。


マルタが最後に呟いた言葉が、頭の奥で鳴った。


『静かなる剣』。


それが、近づいている。


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