万に一つの日
「だから! それは間違いなんだよ!」
とある港にある倉庫で深山仁は漁師に詰め寄られていた。
漁師は中肉中背で肉付きがよく、日頃の漁で焼けたのか肌は小麦色に焼けており、健康的な海の男といった印象を受ける。
「はぁ、いやですからね。 此方も仕事ですので……」
「俺はこの海で幼い頃ね! アンタらの言う怪異とやらに海から落ちたときに助けられたことがあるんだ! それをその刀でぶった斬ろうだなんて許せるかってんだ!」
どうやらこの目の前の漁師は幼い頃、海で溺れかけたときに何かの怪異に助けられたことがあるらしい。
今回深山仁は海上で行方不明者が発生したとの通報を受け、この港にやって来ていた。 行方不明者は1名だが、これが海難事故か怪異絡みかを調べるためにやって来たのだが……。
「いいか!? 俺の目が黒いウチは船は出さないからな!」
今回協力してくれる漁師の目の前で調査の準備をしていたところ刀を見られてしまい、それからはずっと調査協力に否定的な態度になってしまった。
「あぁ、分かりました。 では後日別の方に協力をお願いしますので、今日のところは帰ってもらっていいですよ」
「ハンッ! 他の腰抜けどもが船を出すわけないだろ? 俺くらいしか船を出す度胸はねぇよ!」
「あぁ、いえ。 船だけ貸してもらおうかと。 私船舶免許持っていますので」
深山仁が涼しい顔で言うと目の前の漁師は「はぁ!?」と驚きの声を上げる。
怪異は自然の中に多く潜んでおり、海も例外ではない。
深山仁は海で調査するために1級小型船舶操縦士免許を取得していた。 これが深山仁が怪異管理局で重宝されている理由の一つである。
「それでは」と一言漁師に伝えてその場を後にしようとすると漁師が引き止めてくる。
「ま、待て! ……アンタ、ホントに怪異を殺しに来たんじゃないだろうな?」
「最初にお伝えした通り今回は調査が目的です。 危険があれば怪異を祓う事もありますが、現地協力者がいる所で危険なことは極力避けますよ。 まぁ、私一人での調査になりそうなのでどうなるかは分かりませんがねぇ」
深山仁は先ほど詰め寄られた仕返しのつもりでイヤらしい笑顔を漁師に向ける。 漁師はそれを見て眉を顰める。
「……わかった俺が船を出そう。 ただし! アンタが悪さしないように見張ってるからな!」
「ご協力感謝します。 改めて自己紹介させて頂きます。 怪異管理局員の深山仁です。 本日はよろしくお願いします」
「俺ぁ、木山だ」
深山仁は張り付いた笑顔で自己紹介をし、それに応じる形で漁師の木山も名前を名乗る。
滑り出しは悪いが、なんとか今日中に調査を開始出来そうだと深山仁は胸を撫で下ろした。
港の灯りは徐々に遠ざかり、やがて小さな白い点となり見えなくなる。 今日の天気は生憎の曇り空で綺麗な星空は期待できない。 明かりを放っているのは二人が乗る船だけで、その光が届かない先は暗闇と波の音だけで満たされていた。
「なぁ、アンタなんで夜中に態々船なんか出すんだい? 俺ぁ夜の漁で慣れてるからいいけどよ、普通は明るい方が色々と見つけやすかったりするんじゃないのかい?」
操縦席から木山が深山仁に問いかける。
「怪異の多くが夜中に現れるんだよ。 木山さんが以前助けてもらったときも日は落ちていたんじゃないかな?」
「そういえば、確かに。 あの日は日が落ちてきて、暗くなり始めていたな」
潮風が頬に当たり、ベタついた様な不快感から頬を擦りながら船の上で辺りを見渡す。 辺りは暗闇が広がっているだけで何も手掛かりはなさそうだった。
「取り敢えず、海に出る前に言った場所までお願いします。 行方不明者の船が取り残された場所まで行って何もなければ今日は帰りましょう」
「……なんと言うか拍子抜けだな。 もっとこう……なんかあると思ってたんだが」
木山がそう呟く。 深山仁もその意見に同意したいが、一般人を連れてきている。 気を緩めるわけにはいかない。
「まぁ、何もなければそれに越したことないですから」
その言葉を口にした瞬間、船首の先から水飛沫が上がり黒い影が這い上がってくる。
影は船の灯りに照らされ、その正体が人間の女の形をした何かだと理解するのには時間は要らなかった。
木山は目の前から何者かが現れたのを確認し、反射的に船を止める。
目の前の女は衣服を身に纏っていない。 最初は船首にしがみついていたが、船が止まったのを確認すると手を離し、此方を覗き込む様に徐々に上へ、上へと女は上半身だけが宙に浮いていく。
否、女は宙に浮いている様に見えるが下半身はよく見ると魚やトカゲの様な鱗模様の身体が海から生えている。 しかし、よく見ようとしても女の上半身と違いその存在をはっきりと認識出来なかった。
「……! 下半身が認識出来ないと言うことは磯女か!」
磯女。 上半身は髪の長い女で下半身は認識出来ない海の妖怪。 夜中の船で船員に髪の毛を被せ、髪の毛の先から血を吸い取り殺す妖怪。
深山仁は磯女が人喰いの妖怪である事、一般人が同行している事から、安全確保の為に磯女を祓おうと刀に手を掛ける。
「待ってくれ! 殺さないでくれ!」
そう言いながら木山は深山仁と磯女の間に割り入ってくる。
「……ッ! 木山さん危険ですから離れてください!」
「こ、コイツは昔助けてくれた奴かもしれねぇんだ! 殺さないでやってくれ!」
「その妖怪の名前は磯女と言って人喰いの妖怪です! 危ないので下がって下さい!」
「人喰いだからってコイツがそうとは限らねぇじゃないか!」
運命というのは積み重ねによる結果だ。
一つは木山の幼少期、何かの怪異に助けられたと言う経験を深山仁の想定以上に重きに置いていたと言う事。
二つは磯女が人喰いの妖怪故に、先日人喰いの妖怪である肉吸いと姿を重ねてしまった事。
三つ、四つ……いくつもの要因が重なり、深山仁は判断を鈍らせてしまう。
磯女の髪が闇夜の暗闇に溶け出す様に広がり、一本一本の髪の毛は鋭い針を連想させ木山に向けていた。
「危ない!」
深山仁は咄嗟に木山を引っ張り後ろへ投げる。 迫り来る髪の毛は深山仁の胸部にいくつも刺さり、刺さった髪の毛一本一本から激痛が走る。
刀を抜き放ち、刺さった髪の毛を刀で切り払う。 髪の毛を切られた磯女は深山仁の持つ刀の危険性に気づき船から慌てて距離をとる。
その様子を見て深山仁は己の失態に気づいた。
深山仁は怪異を祓う際一撃で仕留める為に祓詞を口にする。 そうする事で刀に力が宿り、大抵の怪異は一斬りで祓うことが可能なのだ。
しかし、今回は一般人が危険に晒されたこと、磯女と肉吸いの姿を重ねたこと、逃げ場のない船の上だったこと。
幾つもの事態が重なり、気が動転してしまった。 そのせいで祓詞を口にせず刀を振るい、磯女に致命傷を与える事が出来ず、此方の手の内を晒してしまった。
怪異も馬鹿ではない。 少なくともあの磯女は刀を警戒して容易には近づかず遠目から此方を殺しにかかるだろう。
「こんな、初歩的なミスをするとは……!」
自分の致命的なミスに苛立ちと焦りを覚える。 このままでは自分どころか同行者の木山にまで危険に晒してしまう。
深山仁はこれ以上の調査は不可能だと判断し、木山にこの場を急いで離れる様に言おうとする。
だが、それを口にすることは叶わなかった。
最初は巨大な水飛沫音だ。 ザッパーンと豪快に海水が持ち上げられる音が聞こえる。
次に右腕に鋭い痛み。 その痛みは無数の針を刺した様な痛みだった。
深山仁の見ている景色が大きく揺れる。 身体は宙に浮き、空へと投げ飛ばされた。 上へ上へと身体は飛んでいき、やがて頂点に達すると空中で一瞬だけ身体が止まる。 1秒にも満たない時間だが深山仁には不思議と長く感じた。 深山仁はこの瞬間になって自分が何者かに船から投げ飛ばされたのだと理解した。
先ほどまでの長い体感時間とは裏腹に海まで一直線に落ちていき、海面に水柱を上げて沈んでいく。
海水の中で見えたのは巨大な魚影であった。 巨大な尾鰭には無数の細かい棘が生えており、深山仁はこの棘に絡め取られ空中に投げ出されたのだと理解した。
目の前の魚影は巨大な尾鰭を海中で一度動かす。 たったそれだけで海中に巨大な流れが出来、深山仁は身動きが取れなくなる。
身体を踠き、海面へと目指す様に身体を動かす。 そんな状況で深山仁は慌てるどころか何処か他人事の様に現状を見ていた。
あぁ、自分はここで死ぬんだな。
怪異と相対する時は命懸けだ。 それでも自分ならなんとかなると思っていたし、事実今までどうにかして来たし、今回もどうにかなると思っていた。
どれだけ足掻いても、巨大な魚影が生み出す水流に阻まれ、海面まで息が続かない。 深山仁の心は死へと向かっていき、身体も息が続かず動きが鈍くなっていく。
もう諦めようとした瞬間、海底から人影が見える。 それは髪の長い女だった。 下半身の魚の身体を動かしながら深山仁の元へ向かって来ていた。
深山仁は磯女が自分に止めを刺しに来たのだと思い、目を閉じた。
心は死に、身体も死にかけていた。 しかし、深山仁の知識や思考する力は死んでいなかった。
先ほど止めを刺しに来た磯女にはない特徴。 下半身が魚のものであると知覚できた事から別の怪異であると言う事に気づいた。
深山仁は心に火をつけ手を伸ばす。 先ほど見かけた怪異が偶然海面へと目指しており、そんな怪異が偶々自分の隣を泳ぎ、運良く掴んで海面へと出られる……そんな奇跡を願った。
奇跡とは万に一つしか起こり得ない故に奇跡と呼ばれるのだ。
故に彼が手を伸ばせたのはこれまでの積み重ねであり、今日が万に一つの日だったのはきっと運命なのだろう。
先程の怪異は深山仁の伸ばした手を握り海面へと猛スピードで泳いでいく。 その速さには海中の激しい水流すら追いつけず勢いよく海面へと深山仁は顔を出した。
気道に海水が入り込んだのか身体は咳き込みながらも空気を取り込もうと息を吸い込み、また咳き込む。
何度か繰り返していると徐々に落ち着きを取り戻し、自分を助けた怪異に目をやる。
髪の長い女の妖怪だろうか。 特徴的な翡翠色の瞳を深山仁に真っ直ぐと向けていた。
その目は口よりも雄弁に語っている様に見える。 この妖怪はこの事態の解決を求めている。 深山仁はそう捉えた。
「……あの大きな魚影の正体は恐らく磯撫でという妖怪だ。 近年では人間の生存圏から離れた深海に居るはず。 そういうイレギュラーが発生した場合は何か原因がある。 恐らくは磯女がなんらかの方法で磯撫でをここまで連れて来たのかもしれない」
磯撫では巨大な魚の妖怪で巨大な尾鰭についた細かい棘で船にいる人間を釣り上げて溺れさせる伝承がある。 近年では大型船を警戒し人間の前に現れる事が無くなった妖怪だ。
「磯女を祓えば磯撫でが立ち去ってくれるかもしれない。 根拠もない憶測だが……」
目の前にいる妖怪は深山仁を担ぎ無理矢理背中に乗せる。 そのまま猛スピードで船の方向へ泳ぎ出した。
波は磯撫でが動いてるせいで高くなっており、波に乗って何度も跳ねながら真っ直ぐに突き進んでいく。
「〜〜〜〜!! そのまま磯女の横をすり抜ける様に進んでくれ! 後はこっちでなんとかする!」
自分を背に乗せて泳ぐ妖怪は深山仁を待ってくれそうには無いので腹を括る。
「祓へ給へ……! 清め給へ……!」
呪力や霊力というのは不安定なものだ。 それを安定させる為に人々は儀式を行い、儀礼を生み出した。
深山仁が先程口にしたのは略祓詞。 通常の祝詞より短いがその分刀に込められる霊力は不安定となる。 運が悪ければ霊力が殆ど宿らない事もある。
しかし、深山仁の不安とは裏腹に刀は青白い光を眩く放ち、その光は通常の祝詞よりも強い輝きを放っている様に見える。
「ハハッ! 宝くじでも買ってればよかったよ!」
飛沫が上がり、暗闇に包まれた海に一筋の道が伸びてゆく。
船が視界に入ると木山が磯女に襲われそうになっており、今か今かと髪の毛が木山に伸びていっていた。
妖怪が水面を蹴る。 飛沫が上がり、深山仁と妖怪は空中を泳ぐ。 暗闇に輝く青白い光が磯女の胴体をすり抜けた。
深山仁は空中に投げ出され船の上に転がりながら着地する。
磯女に目を向けると胴体が二つに分かれ海へとゆっくりと沈んでいっていた。
「木山さん! 怪我は!?」
「お、俺は大丈夫だ。 で、でもデカいのがまだそこに!」
海へと目を向けると磯撫でが尾鰭を振り上げようとしていた。 磯女を祓っても磯撫ではこの場から立ち去る気配はない。 だったら立ち去りたくなる様にするまでだ。
海に目を向けると船の灯りに反射して翡翠色の瞳が暗闇に浮かび上がるのが見えた。 その瞳に向かって深山仁は叫ぶ。
「木山さんを頼む! 僕は磯撫でをどうにかする!」
麻縄を左腕に巻きつけ、呪力で飛ばす。 飛ばした先は磯撫での尾鰭でその大きな的に絡みつく。
巨大な尾鰭が持ち上がると同時に深山仁の身体が宙に浮く。
遠くから見ると磯撫での動きは緩慢に見える。 しかし、深山仁が勢いよく空中へと投げ出されたという事は目に見えるよりも勢いのある動きで尾鰭を動かしているのだろう。
ギリギリと麻縄が左手に食い込むのを必死で堪えてタイミングを測る。
磯撫での頭上で縄を離し、深山仁は自由になった。
刀を真下に向け、ただ真っ直ぐに落ちる。 刀の青白い光も相まって雷の様だった。
青白い雷が磯撫での脳天に深々と突き刺さる。
「ウ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!!!」
聞いた事もない咆哮が暗闇に鳴り響く。 磯撫では大きく身体を揺らし、深山仁は海へと放り出される。
磯撫でが起こす波に呑まれまいと、疲れ果てた身体に鞭を打って船へ泳ぐ。 その最中も、深山仁は磯撫でから目を離さなかった。
磯撫では大きく身体を持ち上げると海中に潜る。 海中から襲うつもりだろうか? それともこのまま立ち去るのだろうか? その答えはすぐに出た。
磯撫での巨大な魚影は沖の方へとゆっくりと進んでいき、その魚影は徐々に小さくなっていく。 やがて魚影は見えなくなった。
「引いてくれたのかぁ……」
なんとか船へとよじ登ると船上では妖怪と木山がいた。
「ア、アンタ大丈夫か? かなり無茶した様だが……」
「なんとかですが……」
二人の男は満身創痍になりながらお互いの無事を確認する。 しばらくすると木山が妖怪の方へと向き直る。 それを見て深山仁は一言、木山に告げる。
「身体の特徴からザンという妖怪です。 人喰いの妖怪ではなく、逸話では人間を助けたという記録もあります。 私が見ている前でしたら多少の交流は目を瞑りますよ」
「あ、あんたが昔俺を助けてくれた奴なのか?」
木山の問いかけにザンは微笑んで頷いた。
木山はそれを見ると涙を流し礼を何度も口にし、それを微笑んだままザンは見守っていた。
その様子に深山仁は肉吸いを重ね、何処か懐かしさを感じていた。
「私からも礼を言わせて下さい。 貴方のおかげでこの近隣は守られました」
その言葉に対してザンは深く頭を下げて返す。 「こちらこそ」という事だろうか?
ザンはしばらく船で木山からの感謝を受け取った後、海へと帰る。 その間一言も喋る事はなかった。
ザンの逸話の一つに予言じみたものがある。 もしかしたら下手に喋り、何か不吉な予言が出ない様にしていたのかもしれない。 海へと帰るザンの後ろ姿を見ながら深山仁はそんな事を考えていた。
気づけば地平線が白み始めていた。 それを眺めながら、先ほどの巨大な怪異を思い出す。
もし磯撫でが害意を持って来ていたら犠牲者の数は街一つで済んだだろうか?
怪異は巨大な自然の様なものも存在する。 今回の一件でそれを再認識した。
船のエンジン音が響き、港へと向かって走り出す。
深山仁は地平線を眺めながら船へと揺られていた。




