フルコースモンスターその2
馬車は、ここに置いていくことになった。
この先は、馬の通る道がない。
ウェルバが本を腰の鞄にしまって、先に立って歩きだす。僕は重たい短剣だけを握って、後ろをついていった。
森の奥は、昼でも暗かった。
木が太い。見上げても、てっぺんが見えない。
空気が湿っている。苔と濡れた土と、どこかで腐っていく葉のにおいがした。
人の足あとは、もうどこにもない。
ざわ、と――また、あの音がした。
風はないのに、葉だけが鳴る。
右で鳴って、次に左で鳴った。
僕らをぐるりと囲むみたいに。
足元の草が急に伸びた。
僕の足首に巻きついて、ぐ、と引いた。
声を上げる間もなかった。
蔦が上から降ってきて、両腕を、胴を、縛りあげる。
あっという間に、僕は立ったまま、木の幹みたいに巻かれていた。
「動くな」
ウェルバの声がして、銀色がひらめいた。
ひと振り。
僕を巻いていた蔦が、ぱらりとほどけて、足元に落ちる。
切り口が、すっぱりと白い。
見れば、彼女のまわりの草も蔦も、もうあらかた刈り取られていた。
ウェルバは剣を軽く肩に担いで、刃を眺めている。
「人間も、長くやっておると、これくらいは覚えるものでな」
なんでもないことのように言った。「名前もつけた。『グラム』という」
わりと気に入っているらしい。
僕は手首をさすった。蔦の痕が、赤い。
けれど、安心はできなかった。
切られたそばから、地面の草が、また、うねりはじめている。
奥から、一本の大きな木が――歩いてきた。
いや、歩いてはいない。根ごと、ずるり、ずるりと土を引きずって近づいてくる。
枝という枝が、ざわざわと鳴っている。
幹のうろと裂け目が、ちょうど顔みたいに見えた。
ふたつのうろ。あれが、目か。
――その暗いうろの奥で、何かがちろりと動いた。
イタチみたいな、小さな獣。こちらをじっとうかがっている。
「アントレント……!」気づけば、叫んでいた。「ま、待って。違う。あの木じゃない。あの獣でもない」
知っている。これも、本で読んだ。
「こいつの正体は、姿がないんだ。音だけのモンスター。山彦の化身。木に宿るけど、木そのものじゃない。だから木を倒しても、次の木に移るだけで――」
ウェルバは、剣を担いだまま、近づく木を見ていた。
「ふむ。斬っても、斬っても、湧いてくる。こやつ、倒し方がいまいちよく分からん」
彼女は僕を振り返った。「アルス。お主の冒険小説には、なんと書いてあったのだ」
こんなときに。
でも、訊かれたら答えてしまう。それが、僕だ。
「え、えっと、小説だと――主人公が初めて苦戦する相手なんです。実態がないから、倒せない。ひたすら木を倒し続けて、結局、途中で戦闘から離脱して……」
「ほう。逃げたのか」
「で、でも、問題はそのあとで」
木はもう、すぐそこまで来ていた。僕は一歩、下がる。
「せっかくドロップの野菜を持って帰ったのに……魔王が、野菜を受けつけなかったんです」
「野菜を?」
「ええ。魔族は野菜を薬の一種だと見なしていたらしいんです。それで」と僕は続けた。「主人公が、未来の知識で、ありえないドレッシングを発明して、魔王の舌を唸らせる、って話なんです。
でも、それが何だったかは、書いてなくて。シーザーか、マヨネーズか、タルタルか……僕はマヨあたりが無難だと思うんですけど。ウェルバさんは、どう思います?」
ウェルバは、しばらく僕を見ていた。
それから、ふ、と笑った。
森に食われかけながら、ドレッシングの相談をする男。
よほどおかしかったらしい。
「お主と話していると、命のやり取りも夕餉の献立みたいだな」
彼女は剣を、ことりと鞘におさめた。
近づいてくる木に、向きなおる。
笑いを、すっとおさめて。
「だが、生憎だ」
低い声だった。「――余も、野菜は好かん」
彼女が手のひらを上に向けた。
そして、ひとこと。
人の言葉ではない響きで。
「『森ごと、焼き払え』」
次の瞬間。
森が悲鳴をあげた――気がした。
炎が、出た。
いや、出た、なんてものじゃない。
空気そのものが、火になった。
切り落とされた蔦が、地面で、ぼっと燃え上がる。アントレントの木が、根元から、巨大な松明みたいに燃える。
彼女の手のひらの周りで、火がすくみあがるみたいに震えている。
その火が、四方へ走った。
近くの木へ。隣の木へ。森の、もっと奥へ。
止まらない。
熱風が顔を殴った。
これは――まずい。森が、ぜんぶ。
――そのとき。
風が、逆に吹いた。
炎が、行き先をふっと見失う。
森のいちばん奥の暗がりから、誰かが歩いてくる。
小さな影だった。
僕よりずっと年下に見える。
けれど足どりに、迷いがない。燃える森の中を、まるで雨の中でも歩くみたいに、静かに近づいてくる。
長い、淡い色の髪。とがった耳。
手に、弓。
エルフだ。
本では、ここで――僕は、この人に助けられるはずだった。
でも。
その人は、僕を見ていなかった。
燃え盛る木々の前で足を止めて。
まっすぐに、ウェルバを見ていた。
「……ウェルバ、ひさしぶり」
火の音にも消されない、静かな声だった。
ウェルバは、すぐには答えなかった。
炎を手のひらの中へ、ふっとしまいながら――ただ面白そうに、その小さなエルフを見おろしている。
エルフは、燃えあとのくすぶる森を、ぐるりと見た。
それから、もう一度ウェルバに目を戻して、
「……あいかわらず、やりすぎる」
責めるでもなく、ただ確かめるみたいに、言った。
ひと呼吸、おいて。
「精霊が、こんなに怯えているのは……初めてだ」
精霊。
怯えている。
その言葉の意味が、僕にはよく分からなかった。
分かったのは、ひとつだけ。
このエルフは、ウェルバさんを知っている。
ウェルバさんには、僕の知らない時間が、きっといくらでもある。
僕が何年も前に、寝る前に書いた、いちばん古くて恥ずかしい夢。
そのとおりの森に、そのとおりのエルフが、いま目の前に立っている。
獣に襲われ、エルフに助けられる――はずだった。
助けてくれたのは、エルフでは、なかった。
夢は少しだけ形を変えて――それでも、ちゃんと叶ってしまっていた。




