フルコースモンスターその1
ウォトラドの門を出て、しばらく。
馬車はゆるい坂をのんびりと登っていた。
御者台では、ウェルバが片手で手綱を握り、もう片手で本を読んでいる。
出発からこちら、彼女が手綱を引いた様子を僕はまだ見ていない。馬は誰に言われるでもなく、前へ前へと進んでいく。
僕は荷台の縁に腰かけて、腰のタグをまた指でなぞった。
薄い金属の板。にび色は、いちばん下のクラスの色だ。
受け取ったときに重いと感じて、まだその重さに慣れない。
冒険者になった。本当に、なってしまった。
「ウェルバさん」と僕は言った。「僕たち、どこへ行くんですか」
「決まっておろう」と彼女は本から目を上げずに言った。「お主のリストの、いちばん上からだ」
いちばん上。
血の気が引いた。
あれだ。いちばん古くて、いちばん恥ずかしいやつだ。
――迷いの森で獣に襲われ、森の奥のエルフに助けられる。見た目は年下の、けれど何百歳もの弓の達人に弓を教わる。
その先は、口の中でも繰り返せない。
「あ、あれは」と僕は言った。「ただの子どもの落書きで……エルフなんて、本当にいるんですか?」
「おるとも」
あんまり当たり前みたいに言うので、二の句が継げなかった。「西の山の、いちばん奥にな。人間はまず行かぬ」
その言いかたに、僕は黙るしかなかった。
彼女はいつもこうだ。
僕の常識を、僕にとっては叶うはずのなかったことを、目次でも読み上げるみたいにさらりと当たり前にしてしまう。
しばらくは何も出なかった。
モンスターは冒険者の街には近づかない。だから街の周りは、しんと平和なものだ。
けれど坂を一つ越えたあたりから、道の脇に薬草を摘む人影がちらほら見えはじめた。
冒険者だ。
背の籠に緑をいっぱい詰めて。腰には、僕と同じいちばん下の色のタグ。
みんな武器を装備している。
初心者の森、と呼ばれる場所だった。
冒険者になりたての者が薬草を摘み、弱いモンスターで腕慣らしをする。いちばん易しい狩場。本で読んだ。
その、本で読んだ場所に、僕はいま、いる。
森の入り口を抜けて、しばらく。
道の脇の茂みが、がさりと揺れた。
出てきたのは――鳥だった。
いや、鳥でいいのか。猿のような赤ら顔に、雄鶏のようなトサカと翼。
顔は酒に酔ったみたいに真っ赤で、げぷ、とひとつげっぷをした。足元がふらついている。
息を呑んだ。
知っている。これは、知っている。
「ア……アペルータスだ!」
気づけば、叫んでいた。
「東洋ではマシラ鳥と呼ぶ。猿酒――猿が木のうろに溜めた木の実が、ひとりでに発酵して酒になる。それを飲んでいつも酔っている。本に書いてあったとおりだ! だ、だいじょうぶ、こいつは弱い!」
言ってから、はっとした。
僕は今、何をした。
モンスターを見て、名前を言って、本で読んだことを、外で声に出した。
――ずっと店の中で読むだけだった知識が、いま初めて外で役に立った。
胸の奥が、また、変なふうに、熱くなった。
当のアペルータスは、僕の宣言などまるで聞いていない。
ふらふらと一歩近づいて、それから自分の足にもつれて、ぽてんと尻もちをついた。げっぷをして、目を回している。
あ、もう倒せそう。
弱い。本当に、弱い。
「ふむ」
ウェルバがようやく本を閉じた。「初陣だな、アルス殿。やってみよ」
おそるおそる馬車を降りた。
武器なんて持ったのははじめてだった。
ウォトラドで手に入れた初心者用の短剣が一本。
近づくと、アペルータスは僕を見上げて、にこと笑った。猿のような赤い顔で。
そしてどこからか小さな瓢箪を取り出して、僕にすっと差し出してきた。
一杯どうだ、という顔だった。
……戦いにならない。
「これは」と僕は瓢箪を受け取りながら言った。「……勝ち、でいいんでしょうか」
「飲み比べで勝てば、勝ちであろう」とウェルバは愉快そうに言った。「だが、やめておけ。人間にはちとキツイ酒だ。3日は目が覚めんと聞く」
彼女がなぜそれを知っているのかは、考えないことにした。
瓢箪を丁重に返した。
アペルータスは満足そうに、また茂みへ千鳥足で消えていった。
飲み比べは僕の負けだった。
戦いにすらなっていない。
けれど初めて自分の足でモンスターの前に立って、自分の足で戻ってきた。
それだけで、膝が少し笑っていた。
馬車はまた坂を登った。
次に出てきたのは、もっと堂々としていた。
緑色の、大きなグール。
2体で群れをなして、こちらに気づくと、うがー、うごー、と騒ぎ出した。
「アミューズメントグール!」
また、口走っていた。「こ、これも本で読んだ。やられ芸グールなんだ!」
「芸?」
「いろんな国の芝居の型を、まねるんです。倒されるときに。だからどんな倒れ方をするかで――その、ドロップの質がわかるって」
「ふむ、ひとまず倒しておかねばなるまいな」
どすどすと迫ってくるグール。
ウェルバは、ちゃきっと剣を構え、大きく振った。
グールは「うがががぁ!」と叫び、それからおもむろに胸を押さえた。
歌うように、長く朗々と嘆きはじめた。歌劇の悲劇の主役みたいに。よろめき、片膝をつき、天を仰ぎ、それでもなお立ち上がろうとして――ばたりと、見事に倒れ伏した。
最後に片手だけが、すうと力なく落ちる。
幕。
「今のは、日本型……!」
もう一体は、まるで切られた事に気づかないように呆然と立ち尽くしていた。腹部を見ると、血が流れている。なぜ、と問いかけるような悲し気な眼差し。不思議な光が地面から舞い上り、グールを包む。
そして瞼を閉じ、眠るように安らかな顔つきで倒れた。
幕。
「韓国型だ……!」
「うまい」
ウェルバがぼそりと言った。何百年も同じ芝居を見てきた客みたいな、気の抜けた声で。「昔より、間がよくなったな」
倒れたグールの脇に、ぽとりと何かが落ちていた。
小さな、彩りのいいひと皿。アミューズ、というやつだ。
豆腐。キムチ。
いずれも食べたことがない。
僕は本の知識を総動員した。
「そ、相当な大芝居でした。これは……レアドロップ、かもしれない」
「ほう」
「いや、待ってください。さっきの本だと、もっと派手に――怒りの形相を向けてきて、なぜか一瞬ダンスを挟んで、白目をむいて倒れるインド型というのがあるらしいです。特上だって。今のはどちらもしっとり系だったから……中の上、くらいかと」
「お主」
ウェルバはとうとう声を出して笑った。「いい目利きをしておるな」
赤くなった。
けれど、悪い気はしなかった。
本で読んだことが二度続けて役に立った。
たったそれだけのことが、こんなにうれしかった。
アミューズを拾って、僕らはまた、先へ進んだ。
初心者の森は、そこで終わりだった。
道が急に細く、暗くなった。
木が太く、古くなる。
薬草摘みの人影も、いつのまにか一人もいない。
馬が足を止めた。
ウェルバが本を、ことりと閉じた。今度は栞を挟んで。
「ここからは初心者の森ではない」
坂のずっと先の、黒い木立を見て彼女は言った。「迷いの森――ヴォワ・オリアンタル。お主の、いちばん上の項目の本番だな」
風が奥のほうで、ざわと鳴った。
木が鳴ったのか。
それとも何か、別のものが鳴ったのか。
僕にはまだ、わからなかった。




