バゲットドラゴン騎士団、結成
扉をくぐると、中は、やっぱり飯屋だった。
アルペンデ州ウォトラド冒険者ギルド。
長い卓がいくつも並んで、まだ陽も高いのに、男たちが木のジョッキを傾けている。
床には乾いた泥と、こぼれた麦酒のあとが幾重にも染みている。
湯気の立つシチューと、汗と、鉄のにおいが、ぜんぶいっしょくたになって漂っていた。
壁の一面に、紙が何十枚も鋲で留めてある。依頼書だ。
本で読んだ、あの依頼書。
誰も、僕のほうなんて見ていなかった。
けれども、僕はびくびくしながら奥に進んでいった。
本の中では、新人が酒場に入ると、必ず誰かが絡んでくるものだったから。
テーブルのいちばん奥、樽の前に、ひとり、やけに大きな男がいた。
腕は丸太みたいで、頬に古い傷があった。
彼だけが、こちらを見ていた。
僕を上から下まで眺めて、すぐに興味をなくし――ウェルバの腰のあたりで、ほんの一瞬、目を止めた。
ウェルバの腰では、戦利品のクリスタルが、薄く光っていた。
それをにらみつけるようにじっと見ると、男はまた、ジョッキに戻った。
「ほれ、はやく行かんか」
ウェルバに背中を押されて、僕はさらに先に進んだ。
奥に、受付のカウンターがあった。
酒を出すカウンターとは別に、離して設けてある。
冒険者ギルドはどうしてこんな構造になっているのか。
酒を注ぎながら登録の書類を書かせて、まともな書類が返ってくるんだろうか。
けど一説によると、お金のやり取りをする場所を離れた建物にしてしまうと、強盗が入って危ないからだそうだ。
受付けのすぐ背後を、不特定多数の冒険者がたむろする場所にすることで、安全をはかっているらしい。
まるでギャングの知恵だった。
カウンターには、女の人がいた。
僕たちが近づくと、ぱっと顔を上げて、にっこり笑った。
「いらっしゃいませ。ご登録ですか?」
優しい声だった。あんまり優しいので、僕は少しどぎまぎした。
――ギルドの受付嬢を、友達だと思ってはいけない。
冒険者の心得という本に、そう書いてあった。
誰にでも優しいのは、それが仕事だからだ。
わかっている。
わかっているのに、何年も憧れた場所で、最初にかけられた言葉がこれだと、つい、泣きそうになる。
「は、はい。登録を、お願いします」
「では、こちらにお名前を。試験などはございませんので、ご安心を。お酒は飲まれていますか?」
「いえ、飲んでいません」
「けっこうです。パーティでのご登録ですか? それとも、お一人ずつ?」
「二人で」とウェルバが言った。「パーティだ」
「では、パーティ名はお決まりですか?」
僕は、息を吸った。
この瞬間のために、何年も、寝る前に何度も練ってきた名前があった。
「『理想郷の幻光騎士団』」
受付嬢が、にっこりして言った。
「まあ、素敵なお名前ですね」
「ぷくく」
横で、ウェルバが妙な音を出した。
「笑うな」と僕は言った。「受付の人は素敵だと言ってくれた」
「それは受付嬢だからに決まっておろう」とウェルバは肩を震わせた。「お主、いったい何を食って育ったら、そんなものを思いつくのだ」
受付嬢は、にこにこしたまま、申請書を一枚、こちらへ滑らせた。
「では、こちらにご記入を。お好きな席をご利用ください。お飲み物は、あちらのカウンターでご注文ください」
申請書に書くべき項目はたくさんあった。
パーティメンバーの名前やジョブ、血液型や病歴、医者から言われた効きにくい魔法や併用してはならないバフ魔法、得意なスキルや前衛後衛の配置、ポーターや罠解除などの希望する役割、そしてギルドの能力測定を希望するか否か。
ウォトラドは、『黒衣のダンジョン』の周囲に築かれた、歴史の長い迷宮都市だった。
モンスタースタンピードみたいな有事には、ギルドの指導で大型パーティに編成されることがあるらしい。
なので、これくらいは最低限必要な情報なのだった。
酒場のテーブルに腰掛けて、お酒でも注文しながらゆっくり書くことにした。
僕は羽根ペンを取ろうとして、右手がしびれているのを思い出した。あまり書く項目が多いと、また痛み出すかもしれない。
「貸せ」とウェルバが言った。「お主はまだ手が痛むだろう。余が書いてやる」
僕は、ほっとして、バゲットを口に運んだ。
ウェルバが書いてくれるなら安心だ。
彼女の字は、本の余白に書きこむのを何度か見たけれど、古風で、几帳面で、きれいな字だった。
彼女はさらさらと何か書いて、申請書を受付嬢のところに持っていき、席に戻ってきた。
しばらくして、受付嬢が、酒場じゅうに響く、よく通る声で言った。
「『死ぬまでにやりたい100のこと発表ドラゴン』の皆さま――! カウンターまで、お越しくださーい!」
酒場の何人かが、顔を上げた。樽の前の大男も。
僕は、肉を喉に詰まらせかけた。
「来たか」とウェルバが立ち上がった。
「待って」と僕は言った。「待ってください。名前。名前が、変わってる。さも当然のごとく。まるで上から下に落ちるがごとく。『オーダーオブレディアンス』です。ぜんっぜん違う」
「余は、もっと読みやすくて、かわいい名前がよい」とウェルバはきっぱり言った。「あと、ドラゴンは必須だ。これだけは譲れぬ」
「なんでドラゴン?」
「譲れぬ」
とりつくしまもなかった。
受付嬢は、にこにこと、僕たちのやりとりを見ている。
たぶん、こういう揉めごとを、毎日のように見ているんだろう。
「わかりました、短くしましょう」と僕は譲歩した。「二人の意見を合わせて、『ドラゴン騎士団』みたいに。そういう方向で考えられませんか」
「ふむ」とウェルバは少し考えた。「ならば、縮めよう。死ぬまでにやりたいこと――終わりの活動。『終活ドラゴン団』。短い。ドラゴンも入っている。これでよかろう」
「騎士が消えたんだけど」
なぜか彼女は、その言葉を、やけに気に入っているようだった。
死ぬとか、終わりとか、そういう言葉を、わざわざ名前に残したがる。
へんな人だ、と僕は思った。
それ以上は、思わなかった。
受付嬢が、はじめて、申し訳なさそうな顔をした。
「あの……ごめんなさい。せっかくなのですが」と、彼女は声を少し落とした。「ギルドの公式名簿には、『死』や『終』のような、後ろ向きの……縁起のよくない言葉は、お載せできない決まりでして。
さっきはそのまま読み上げてしまいましたけれど、あれは、申請のお名前で皆さんをお呼びしただけで。正式な登録名称となると、別なんです」
つまり、酒場じゅうに恥ずかしい名前を読み上げられたうえで、その名前は使えない、ということだった。二重に、ひどい。
「前向きで、短くて、かわいい言葉」とウェルバは腕を組んで、宙をにらんだ。「前向きで、短くて、かわいい――」
彼女の視線が、ふと、隣の卓に落ちた。
そこでは、ひとりの冒険者が、籠から長いパンを引き抜いて、シチューに浸していた。
きつね色の、こんがりした、ばかみたいに長いパン。
「バゲット」とウェルバが言った。
「えっ」
「バゲットだ。短い。かわいい。縁起も悪くない。何より――」彼女は、ふふん、と頬をほころばせた。「ドラゴンを付けても、ちゃんとかわいい。『バゲットドラゴン騎士団』。これだ」
「パンじゃないですか」
「うまそうであろう」
反論する気力は、もう残っていなかった。
さっきまで『理想郷の幻光騎士団』だったものが、最終的にはパンになった。
受付嬢が、今度こそ嬉しそうに、羽根ペンを走らせた。
「『バゲットドラゴン騎士団』さま。はい、こちらは大丈夫です。とても、かわいいお名前ですね」
「だろう」とウェルバは、なぜか得意げだった。




