本屋の夢
「全部買い上げる」
あの日、彼女はそう言って、僕の店の棚の本を端から端まで買った。
代金は、僕が値を言う前に、革袋ごと作業台に置かれた。
ずどん、と。
検めるのも失礼に思えるほどの重さだった。
「順に綴じておけ。何日かおきに受け取りに来る」
本は買いなれているらしい。
それだけ言って、腰の禍々しいクリスタルを揺らしながら、彼女は出ていった。
それから言葉どおり、彼女は何日かおきに戻ってきた。
出来上がった分をまとめて受け取り、また革袋を置いて出ていく。
受け取った本を馬車にぎっしり積んで、どこかへ運んでいく。
どこに行くんだろう。
会話はほとんどない。
装丁屋の仕事には決まった速さがある。
一日に紙を折り、翌日にそれを縫い、次の日に背を固めて表紙を合わせる。
父から受け継いだ手順を、僕は崩さずに回していた。
一回のロットで五十冊を並行して作ることができた。
彼女が来るたびに渡せるだけの本は、できていた。
最初のうちは。
崩れたのは、一か月目のことだ。
縫いの工程で、右手がしびれた。
何日も根を詰めた手は、針を思うように引けない。
それでも止めなかった。
歯を食いしばって、なんとか革の表紙を貼れたのが、二十冊。
手首がずきずきと痛んで、休まないといけないのはわかっていたが、どうしてもこれだけは仕上げておきたかった。
締め木に入れて、あとは仕上げを待つばかりだった。
こういうとき、僕はいつも机の隅のメモ帳を開く。
子どものころから書きためた、死ぬまでにやりたい事リスト。
決して叶う事のない夢の目録。
あれを眺めていたい。
少しだけ外の風に当たった気になって、そうしたら、また手が動かせる。
それが僕のルーティン。
僕の、長年の癖になっていた。
だが、メモが、なかった。
机の隅にも、引き出しにも、棚の本のあいだにも、ない。
この作業に入る前には、たしかに――けれどこの一カ月は忙しくて、それどころではなくなっていた。
僕は店じゅうを探した。
折りかけの束を崩し、締め木をどけ、棚の本を半分抜き出し、床に這いつくばって作業台の下まで覗いた。
一日が、それで終わった。
メモは、どこにもなかった。
そして、表紙を貼った二十冊のうち、最後まで仕上げられたのは、四冊だけだった。
さんざんな結果だった。
店のなかは、探し回ったまま荒れ放題。
崩れた紙束、脇へ寄せた締め木、半分抜き出された棚。
その隅に、最後まで仕上がった四冊だけが、行き場をなくしたように、きちんと積まれていた。
父なら、こんなことはなかった。
父は毎日、同じ速さで本を綴じた。
客が来ても来なくても、朝に締め木を締め、夜に膠を引いた。
技芸は長し、人生は短し――父の口癖だった。
手を動かし続ける者だけが、短い人生で長年の技術に追いつける。
父は、紙きれ一枚で取り乱したりしなかっただろう。
戦う力も、旅をする気力もない。
けれど、本を綴じるその手だけは、僕にもちゃんとあると、思っていた。
その手が、いま、震えている。
僕はこれから一体、どうなってしまうんだ。
その朝、ベルが鳴った。
例の冒険者が、また本を受け取りに来たのだ。
僕は隅の四冊に目をやって、こんな数しか渡せないことを、どう詫びるか考えた。
足りない時間を使って、ボロボロのメンタルで、それでもなんとか納得のいくものを渡せるように、渾身の力を込めた。
けれど彼女は、完成品のほうを見なかった。
琥珀色の目が店の中をぐるりと一周して、僕を見た。
そして、まっすぐ作業台に歩いてきた。
僕が握りかけていた糸を見て、言った。
「それはもうよい」
「……え?」
彼女は腰の革袋から一枚の紙を取り出し、折り目に沿って広げて、僕の作業台に置いた。
手垢で柔らかくなった、見間違えようのない紙。
昨日、店じゅうを這いずり回って探した、あのメモだった。
ここに、あった。
――どうして、彼女が、これを。
血の気が引いた。
ようやく分かった。
あの日、表紙のない小説の束の下に、僕はこれを置いた。
一日に五十冊も作っていたから、たぶん膠に張り付くかなにかして、紙に紛れて――。
探しても見つからないはずだった。
メモは、とっくに、この店にはなかったのだ。
「――返してください」
声がかすれた。
僕はみっともなく手を伸ばした。
あんなもの、人に見せるものじゃない。
ただの中二の妄想だ。
よりにもよって、この人に。
彼女は紙を、僕の手の届かない高さに掲げた。
そして、読み上げはじめた。
「『冒険者になりたい。冒険者の聖地ウォトラドで初心者パーティを結成し、リーダーに〈お前クビな〉と言われながらも旅を続け、新しい仲間を集めて、元のパーティを見返したい』」
「うわぁぁ!」
僕は慌てて立ち上がった。椅子が、倒れた。
「『エルフの森で迷い、深部に棲む数百歳の達人に弓を習う。見た目は年下。大恋愛の末、〈私は森に住む者〉と諭されて森を追われ、以後、矢を射るたびに彼女を思って涙する弓の名手となる』」
「やめて、やめてください、お願いします!」
「『覆面剣士として闘技大会に出て、無双し、頂上決戦で〈弱くてあくびが出るわ、お前らまとめてかかってこい〉と言い放ち、全員と乱闘。ルールを破って反則負け。優勝は逃す。夜、酒場で、自分の噂を遠くに聞きながら、ひとりハイボールを飲みたい』」
顔から火が出た。耳まで熱い。その場にしゃがみこんでしまいたかった。
彼女は、読むのをやめた。
そして、僕を見て、にやりと笑った。
「安心しろ。余も、同じ事を書いているのである!」
「……え?」
彼女は腰の革袋から、もう一枚、紙を取り出した。
僕のよりずっと上等な、けれど同じくらい手垢で柔らかくなった紙を、作業台に広げた。
達筆で、こう書いてあった。
死ぬまでにやりたい事リスト。
いくつかの項目に、線が引かれていた。
――世界一美味い料理を食べる。
――一晩で、一億を、ぱあっと溶かす。
――街を、店ごと買い占める。
――世界一の最難関ダンジョンを、ひとりで踏破する。
その下に、まだ線の引かれていない項目が、いくつか残っていた。
頭の奥が、すうっと冷えた。
北の山で、無名の冒険者が、たった一人でダンジョンのコアを壊した。
魔法環区のカジノで、一億エルシャルンが、一晩で溶けた。
商店街が、端から端まで、買い占められていった。
――そういう事か。
「……全部、これのためだったんですか」
「左様」
彼女は、当然のように頷いた。
「これを……死ぬまでに、全部やるつもりなんですか」
「左様。だが――」
彼女は、僕のリストを、もう一度、軽く振った。
「お主のリストのせいで、余のやりたい事が、増えてしまったのである」
「僕の、せい?」えー。「……どうしたら、いいんですか」
「全部だ」
彼女は、豪快に笑った。今度は、にやり、ではなかった。
「お主のリストに書いてあること、全部、余にもやらせるのである」
僕は、言葉を失った。
考えたことも、なかった。
誰かが「やってみたい」と言う日が来るなんて、ただの一度も。
そのとき、ようやく、店の外の騒ぎが耳に入った。
子どもたちの歓声。
地面を、何か重いものが、ずしりずしりと揺らしている。
彼女は、僕のリストを作業台にそっと戻した。
「さあ、手始めに外を見るがいい」
僕は、戸口へ向かった。
足がふらついた。
三歩で着いて、戸を開けた。
そして、息が止まった。
通りの真ん中に、巨人がいた。
赤い肌の、見上げるほど大きな巨人が、石畳にしゃがんで、井戸から汲んだ水を手のひらにこぼして舐めていた。
その肩のあたりに、立ちのぼる湯気が、雲のように、かかっていた。
井戸の周りで、子どもたちが大歓声を上げていた。
巨人が僕に気づいて、ゆっくり笑った。
僕のリストの一行が、頭の中でカチカチと鳴った。
――肩に雲がかかるような巨人と友達になって、その肩に乗せてもらって旅をする。
振り返ると、彼女がすぐ後ろに立っていた。
背が高くて、僕の目線は彼女の肩までしかなかった。
「あれは……誰ですか?」
「ユデル。今朝、話してきた。しばらく余の旅に付き合うそうだ」
「旅」
「お主のリストの項目だ。先にひとつ、叶えておいた」
僕は戸口に立ったまま、動けなかった。
頭の中で、誰かが言った。
これは現実じゃない。
座れ。針を取れ。
お前は装丁屋だ。
父のように毎日手を動かせ。
お前の好きな世界は、本の中にしかない。
けれど僕は、何も言わなかった。
ただ、戸の外の光を見ていた。
彼女は急かさなかった。
腕を組んで、僕が決めるのを待っていた。
けれども、自分はもう行くのを決めている。
僕は震える右手を見た。
腱鞘炎の、職人になりきれなかった手。
このまま他人の本を綴じ続けて、死ぬのか。それとも。
僕は、机に戻った。
――けれど、針は取らなかった。
縫いかけの束を、父がいつも仕事を仕舞うときにしていたのと同じ手つきで、そっと脇へ寄せた。
それから、彼女が戻した僕のリストを、両手で持ち上げた。
手垢で柔らかくなった、僕の黒歴史を。
「……行きます」
言ってしまうと、膝が少し笑った。
「行きます。連れて行ってください」
「うむ。では行こう。ウォトラドへ。そこでお主は冒険者になる」
店を出て、彼女は通りの巨人のほうへ歩いていった。
巨人が大きな手のひらを差し出した。
彼女はそこに、ひらりと乗った。
戸口で、僕は自分のリストを胸に抱いていた。
外はまぶしかった。本の中ではない、本物の外が、戸口のすぐそこにあった。
リストを消化する旅が、始まる。




