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2/15

本屋の夢

「全部買い上げる」


 あの日、彼女はそう言って、僕の店の棚の本を端から端まで買った。

 代金は、僕が値を言う前に、革袋ごと作業台に置かれた。


 ずどん、と。


 検めるのも失礼に思えるほどの重さだった。


「順に綴じておけ。何日かおきに受け取りに来る」


 本は買いなれているらしい。

 それだけ言って、腰の禍々しいクリスタルを揺らしながら、彼女は出ていった。


 それから言葉どおり、彼女は何日かおきに戻ってきた。

 出来上がった分をまとめて受け取り、また革袋を置いて出ていく。


 受け取った本を馬車にぎっしり積んで、どこかへ運んでいく。

 どこに行くんだろう。

 会話はほとんどない。


 装丁屋の仕事には決まった速さがある。

 一日に紙を折り、翌日にそれを縫い、次の日に背を固めて表紙を合わせる。

 父から受け継いだ手順を、僕は崩さずに回していた。

 一回のロットで五十冊を並行して作ることができた。

 彼女が来るたびに渡せるだけの本は、できていた。

 最初のうちは。


 崩れたのは、一か月目のことだ。

 縫いの工程で、右手がしびれた。

 何日も根を詰めた手は、針を思うように引けない。

 それでも止めなかった。


 歯を食いしばって、なんとか革の表紙を貼れたのが、二十冊。


 手首がずきずきと痛んで、休まないといけないのはわかっていたが、どうしてもこれだけは仕上げておきたかった。


 締め木に入れて、あとは仕上げを待つばかりだった。


 こういうとき、僕はいつも机の隅のメモ帳を開く。

 子どものころから書きためた、死ぬまでにやりたい事リスト。

 決して叶う事のない夢の目録。

 あれを眺めていたい。

 少しだけ外の風に当たった気になって、そうしたら、また手が動かせる。

 それが僕のルーティン。

 僕の、長年の癖になっていた。


 だが、メモが、なかった。


 机の隅にも、引き出しにも、棚の本のあいだにも、ない。

 この作業に入る前には、たしかに――けれどこの一カ月は忙しくて、それどころではなくなっていた。


 僕は店じゅうを探した。

 折りかけの束を崩し、締め木をどけ、棚の本を半分抜き出し、床に這いつくばって作業台の下まで覗いた。


 一日が、それで終わった。

 メモは、どこにもなかった。

 そして、表紙を貼った二十冊のうち、最後まで仕上げられたのは、四冊だけだった。


 さんざんな結果だった。

 店のなかは、探し回ったまま荒れ放題。

 崩れた紙束、脇へ寄せた締め木、半分抜き出された棚。

 その隅に、最後まで仕上がった四冊だけが、行き場をなくしたように、きちんと積まれていた。


 父なら、こんなことはなかった。

 父は毎日、同じ速さで本を綴じた。

 客が来ても来なくても、朝に締め木を締め、夜ににかわを引いた。


 技芸は長し、人生は短し――父の口癖だった。


 手を動かし続ける者だけが、短い人生で長年の技術に追いつける。

 父は、紙きれ一枚で取り乱したりしなかっただろう。


 戦う力も、旅をする気力もない。

 けれど、本を綴じるその手だけは、僕にもちゃんとあると、思っていた。

 その手が、いま、震えている。

 僕はこれから一体、どうなってしまうんだ。


 その朝、ベルが鳴った。

 例の冒険者が、また本を受け取りに来たのだ。


 僕は隅の四冊に目をやって、こんな数しか渡せないことを、どう詫びるか考えた。


 足りない時間を使って、ボロボロのメンタルで、それでもなんとか納得のいくものを渡せるように、渾身の力を込めた。


 けれど彼女は、完成品のほうを見なかった。

 琥珀色の目が店の中をぐるりと一周して、僕を見た。

 そして、まっすぐ作業台に歩いてきた。

 僕が握りかけていた糸を見て、言った。


「それはもうよい」


「……え?」


 彼女は腰の革袋から一枚の紙を取り出し、折り目に沿って広げて、僕の作業台に置いた。


 手垢で柔らかくなった、見間違えようのない紙。

 昨日、店じゅうを這いずり回って探した、あのメモだった。


 ここに、あった。


 ――どうして、彼女が、これを。

 

 血の気が引いた。

 ようやく分かった。

 あの日、表紙のない小説の束の下に、僕はこれを置いた。

 一日に五十冊も作っていたから、たぶんにかわに張り付くかなにかして、紙に紛れて――。

 探しても見つからないはずだった。

 メモは、とっくに、この店にはなかったのだ。


「――返してください」


 声がかすれた。

 僕はみっともなく手を伸ばした。

 あんなもの、人に見せるものじゃない。

 ただの中二の妄想だ。

 よりにもよって、この人に。


 彼女は紙を、僕の手の届かない高さに掲げた。

 そして、読み上げはじめた。


「『冒険者になりたい。冒険者の聖地ウォトラドで初心者パーティを結成し、リーダーに〈お前クビな〉と言われながらも旅を続け、新しい仲間を集めて、元のパーティを見返したい』」


「うわぁぁ!」


 僕は慌てて立ち上がった。椅子が、倒れた。


「『エルフの森で迷い、深部に棲む数百歳の達人に弓を習う。見た目は年下。大恋愛の末、〈私は森に住む者〉と諭されて森を追われ、以後、矢を射るたびに彼女を思って涙する弓の名手となる』」


「やめて、やめてください、お願いします!」


「『覆面剣士として闘技大会に出て、無双し、頂上決戦で〈弱くてあくびが出るわ、お前らまとめてかかってこい〉と言い放ち、全員と乱闘。ルールを破って反則負け。優勝は逃す。夜、酒場で、自分の噂を遠くに聞きながら、ひとりハイボールを飲みたい』」


 顔から火が出た。耳まで熱い。その場にしゃがみこんでしまいたかった。


 彼女は、読むのをやめた。

 そして、僕を見て、にやりと笑った。


「安心しろ。余も、同じ事を書いているのである!」


「……え?」


 彼女は腰の革袋から、もう一枚、紙を取り出した。

 僕のよりずっと上等な、けれど同じくらい手垢で柔らかくなった紙を、作業台に広げた。


 達筆で、こう書いてあった。

 死ぬまでにやりたい事リスト。

 いくつかの項目に、線が引かれていた。


 ――世界一美味い料理を食べる。

 ――一晩で、一億を、ぱあっと溶かす。

 ――街を、店ごと買い占める。

 ――世界一の最難関ダンジョンを、ひとりで踏破する。


 その下に、まだ線の引かれていない項目が、いくつか残っていた。


 頭の奥が、すうっと冷えた。


 北の山で、無名の冒険者が、たった一人でダンジョンのコアを壊した。

 魔法環区のカジノで、一億エルシャルンが、一晩で溶けた。

 商店街が、端から端まで、買い占められていった。

 ――そういう事か。


「……全部、これのためだったんですか」


「左様」


 彼女は、当然のように頷いた。


「これを……死ぬまでに、全部やるつもりなんですか」


「左様。だが――」


 彼女は、僕のリストを、もう一度、軽く振った。


「お主のリストのせいで、余のやりたい事が、増えてしまったのである」


「僕の、せい?」えー。「……どうしたら、いいんですか」


「全部だ」


 彼女は、豪快に笑った。今度は、にやり、ではなかった。


「お主のリストに書いてあること、全部、余にもやらせるのである」


 僕は、言葉を失った。

 考えたことも、なかった。

 誰かが「やってみたい」と言う日が来るなんて、ただの一度も。


 そのとき、ようやく、店の外の騒ぎが耳に入った。

 子どもたちの歓声。

 地面を、何か重いものが、ずしりずしりと揺らしている。


 彼女は、僕のリストを作業台にそっと戻した。


「さあ、手始めに外を見るがいい」


 僕は、戸口へ向かった。

 足がふらついた。


 三歩で着いて、戸を開けた。

 そして、息が止まった。


 通りの真ん中に、巨人がいた。

 赤い肌の、見上げるほど大きな巨人が、石畳にしゃがんで、井戸から汲んだ水を手のひらにこぼして舐めていた。

 その肩のあたりに、立ちのぼる湯気が、雲のように、かかっていた。


 井戸の周りで、子どもたちが大歓声を上げていた。

 巨人が僕に気づいて、ゆっくり笑った。


 僕のリストの一行が、頭の中でカチカチと鳴った。


 ――肩に雲がかかるような巨人と友達になって、その肩に乗せてもらって旅をする。


 振り返ると、彼女がすぐ後ろに立っていた。

 背が高くて、僕の目線は彼女の肩までしかなかった。


「あれは……誰ですか?」


「ユデル。今朝、話してきた。しばらく余の旅に付き合うそうだ」


「旅」


「お主のリストの項目だ。先にひとつ、叶えておいた」


 僕は戸口に立ったまま、動けなかった。

 頭の中で、誰かが言った。

 これは現実じゃない。

 座れ。針を取れ。

 お前は装丁屋だ。

 父のように毎日手を動かせ。

 お前の好きな世界は、本の中にしかない。

 けれど僕は、何も言わなかった。

 ただ、戸の外の光を見ていた。


 彼女は急かさなかった。

 腕を組んで、僕が決めるのを待っていた。

 けれども、自分はもう行くのを決めている。


 僕は震える右手を見た。

 腱鞘炎の、職人になりきれなかった手。

 このまま他人の本を綴じ続けて、死ぬのか。それとも。


 僕は、机に戻った。

 ――けれど、針は取らなかった。

 縫いかけの束を、父がいつも仕事を仕舞うときにしていたのと同じ手つきで、そっと脇へ寄せた。


 それから、彼女が戻した僕のリストを、両手で持ち上げた。

 手垢で柔らかくなった、僕の黒歴史を。


「……行きます」


 言ってしまうと、膝が少し笑った。


「行きます。連れて行ってください」


「うむ。では行こう。ウォトラドへ。そこでお主は冒険者になる」


 店を出て、彼女は通りの巨人のほうへ歩いていった。

 巨人が大きな手のひらを差し出した。

 彼女はそこに、ひらりと乗った。


 戸口で、僕は自分のリストを胸に抱いていた。

 外はまぶしかった。本の中ではない、本物の外が、戸口のすぐそこにあった。


 リストを消化する旅が、始まる。

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