本屋の日常
「技芸は長し、人生は短し」アルスロンガ、ウィータブレウィス(Ars longa, vita brevis)
僕はアルスと名付けられた。
父の跡を継いで装丁職人になることが望まれていたからだ。
僕はなった。13歳で装丁職人に。
当時のテンディルコンタル州は、ギルドが廃止されて徒弟制度がなくなったばかりで、弟子入り期間がなかった。
おまけに、子どもの権利なんてない時代だったから、5歳から仕事をしているような子もいた。
たとえ子どもでも職人を名乗る事が許された。
それでも未熟なうちは見習い期間がちゃんとあって、学校もあった。
けれども僕は子どものころから父の手伝いをし、技術を盗んで、いつの間にかいっぱしの職人になっていた。
父が逝って、店は僕ひとりになった。
場所は『アイ区』――静かな職人街だ。
ここにはかつて鍛冶ギルドが軒を連ね、年中セミが鳴いているかのように鉄を打つ音が響いていた。
けれども、今ではもう鍛冶屋は数えるほどしか残っていない。
かつては街の中心の『第一魔法環区』から流れてきていた火の魔力も、市民革命と同時にストップしたままだ。
職人たちは火を「買う」ようになり、さらにギルドも廃止され、買えない者から廃業した。
鍛冶屋のいた跡地には、装丁屋や革職人や時計師がぽつぽつと残っている。
火の魔力は、今でも何かの拍子に懐かしくなる。
子どものころ、夕方になると父が小さな魔法ランプを点けるのを横で見ていた。
ぱちぱちと爆ぜるあの炎が、無料だった時代のものか、すでに買い始めた時代のものか、もう思い出せない。
装丁職人というのは、この時代の本屋だ。
うちのような店で、棚に並んでいるのは「本」ではない。
「紙束」だ。
印刷所から仕入れた折丁の束を、糸でかろうじて綴じただけのもの。
客はそれを店内で読み、気に入った一冊だけ、装丁を頼むのだ。
それを綴じ、本に仕上げて客に渡すまでが本屋の仕事だった。
最初から表紙のついた完成品が棚に並んでいるわけではない。
だから「本屋に行く」とは、「読みに行く」ことであり、「気に入ったものを職人に綴じてもらいに行く」ことだ。
一冊が完成品になって客の手に渡るまでに、最低でも4日かかる。
気ままに頼めるものではないし、鍛冶屋がなくなったおかげで、アイ区まで足を運ぶのは、貴族かその使いぐらいになっていた。
まあ、鍛冶屋に寄ったついでに冒険者たちが本を買っていくか、と言ったら、怪しいけども。
客層は今も昔も、そんなに変わっていなかった。
早朝。
ベルがちりんと鳴って、見覚えのある使いが入ってきた。
家紋の刺繍を肩に縫いつけた、痩せた中年の男だ。
「アルスさん。昨日の晩餐会で、覆面剣士の続刊が出たと話題になったそうで」
ああ、と僕は頷いた。
『覆面剣士マスクド・ソードマン』。
この小説が流行っているのは、印刷所の増刷数で気づいていた。
机の上にめいいっぱい広げていて、やけに気合が入っていた。
たぶん今年一番の売れ筋なんだろう。
僕は背を伸ばして、棚の右端の束を取った。
糸の綴じの印を確かめた。2月、新刊だ。
「どうします、すぐにご入用ですか?」
僕は静かに、いつもの説明をした。
「布の表紙を使えば、今日のうちにお渡しすることはできます。ただ、急いで作った本は長持ちしません。それでも、お渡しした後、一晩は重しを乗せて、膠が乾くまでお待ちいただくことになります。革ですと、納品は4日後の午後になります」
使いは少し考えるふりをして、それから当然のように言った。
「革でお願いします。今までの巻と揃えたいので」
僕は頷いた。
「4日後の午後以降、またお越しください」
ベルが鳴って、彼が出ていった。
僕は新刊の束を作業台に置いた。
話題の覆面剣士。
いわゆる中世騎士物語のブームが再燃してきて、流行りに乗っかっただけの量産型ラノベだった。
屋敷の主人はずいぶんなファンらしい。
そんなに面白いなら、待ち時間に読んでみようか、と僕は思った。
装丁の仕事は、待ち時間でできている。
紙を折って重ね、締め木で締めれば、それを丸一晩は寝かさないと紙が膨らんでしまう。
背に膠を引いたあとも一晩。
表紙を合わせたあとも一晩。
一冊作るのに、最低三晩は待ち時間が要る。
だから装丁職人は、待つあいだに本を読んでいた。
父もそうしていたし、僕もそうしている。
新刊の中身も、待ち時間のうちに読み終わるはずだ。
【一日目】
折丁を確かめ、傷んだ折りを直し、ページの順番通りに揃え直す。
ぴしりと角を揃えて、締め木に入れ、ぎりぎりまで締める。
ここまで。あとは明日の朝まで、紙が落ち着くのを待つだけだ。
僕は奥の椅子に座って、店の控え一冊から、覆面剣士シリーズを開いた。
覆面剣士は、よくある冒険活劇ものだ。
今回の新刊では、闘技大会に出ていた。
チート能力をもった謎の主人公、覆面剣士が無双しまくる、まあいつもの展開だ。
決勝戦で、彼は審判の合図を待たずに相手に襲いかかり、勝手に勝利を宣言した。
場外にまで相手を引きずり出して、観客席で一発殴った。
僕はページから目を上げた。
――これは、反則負けじゃないのか?
読み進めると、覆面剣士は普通に優勝していた。
観客は熱狂し、彼は伝説となった。
僕は本を閉じて、ペンを取って、ノートの隅に書いた。
「反則負けでいいじゃん」
展開が甘いな、と思う。
まあ、量産型ラノベなんてこんなもんだろう。
そのとき、ズーン、と地響きがした。
窓のガラスが小さく震えた。
締め木の上にかさねた重りが、ほんの少しずれた。
僕は重りを直して、それから戸の外に首を出した。
空は晴れている。
何も起きていないように見えた。
けれどもその噂は、その日の昼までに、街のあちこちに出回っていた。
州境近くの山中で、ダンジョンのコアが破壊されたらしい。
ソロ冒険者。
たった一人。
それも無名の冒険者だという。
一体何者かは不明。
僕がまず思ったのは、手に入れた素材はどうするんだろう、という事だった。
テンディルコンタル州には、冒険者ギルドがない。
市民革命のおりに「特権職能」として一緒に廃止されたままだ。
ということは、破壊されたコアは、どこかに売る伝手があるんだろうか。
そんなことを考えながら、僕は午後の続きを覆面剣士に費やした。
【二日目】
締め木から紙の束を出すと、ぴしっと紙が締まっている。
その背に紐を当て、麻糸でちくちく縫っていった。
一目ずつ、一目ずつ。
これが一番時間のかかる工程だ。
縫い終わってから、背に膠を厚く塗って、また一晩寝かせる。
昼すぎ、家紋の使いがもう一度ベルを鳴らした。
「進んでおられますかね」
『4日後』と告げたばかりだ、と僕は思ったけれど、口には出さない。
貴族がよほど楽しみにしているのだろう、待ちきれずに何度も様子を見に来させていた。
「順調です」
「それは何より。ところで聞きましたか、魔法環区のカジノの話を」
「いえ」
「例のコアを壊した冒険者だそうですよ。一億エルシャルンを溶かしたとか」
「一億」
「一億です」
使いは満足そうに口の端を上げ、また帰っていった。
夜、店じまいの戸を閉める頃、向かいの革職人も顔をのぞかせた。
同じ話で、もう少し詳しかった。
破壊したばかりのダンジョンのコア破片をカジノに持ち込み、両替して一億ひっさげてルーレットに挑み、見事に一勝した。
しかし、その直後にダブルアップでそっくり吹っ飛ばしたのだという。
「一億だぞ、一億」
革職人は腹を抱えた。
僕は笑えなかった。
……なんてもったいない事を。
けれど、僕ならどうしただろう。
僕にそんな大金の使い道はあっただろうか?
革職人が帰ったあと、戸を閉めて、僕は少し、何に使うか考えた。
一億エルシャルン。
家を建てるのか、土地を買うのか。
……世界周遊かなぁ。
なんて言葉が頭に浮かんで、慌てて打ち消した。
愚にもつかない事を。
【三日目】
膠が乾いた本の束を取り出し、背表紙を除く三方を切りそろえる。
これで本の中身は完成。
次に、新しい革をナイフで切り、芯紙を貼って、表紙の形を組んでおく。
革に金箔で家紋と「第七巻」の文字を押し、出来上がった表紙と中身を合体させて、また締め木へ。
セット完了。
これで明日の午後の引き渡しまで、もう一晩待つだけだ。
午後の遅い時間。
覆面剣士の続刊を読み終わった。
最後は、もう少しまともな展開だったけれど、やはり優勝の場面は納得がいかなかった。
そして――悔しいことに――終盤に出てくる、覆面剣士が誰にも正体を明かさないまま、ひとり酒場で自分の噂を聞きながら飲んでいる場面が、何度か読み返したくなるくらい良かった。
僕はノートを開いて、感想を書いた。
「覆面の剣士が反則を重ねて、それでも優勝するのはおかしい。反則負けして、それでも酒場で噂になっているほうが、ずっと格好いい」
書きながら、少し顔が熱くなった。
僕は一体何を書いているんだ。
その日のうちに、街がさらに騒がしくなった。
カジノの一件で終わるかと思った例の冒険者が、別のコア破片を売り、その金で店ごと商品を買い占めて歩いているという。
おいおい、景気いい冒険者だな。
何本目の通りだ、もう近いぞ、と人々が言い合っていた。
【四日目】
朝、締め木から本を取り出した。
革の表面はぴたりと平らで、金箔の「第七巻」は朝の光で鈍く光った。
父の時代から使っている目打ちで、最後に細かい調整をした。
午後、家紋の使いが本を取りに来た。
「ああ、見事だ。先代と同じだ」
使いは新しい革をやさしくなぞって、しばらく言葉を選んだ。
それから、僕に視線を上げた。
「アルスさん、お読みになりましたか」
読みました、と僕は答えた。
ネタバレしたいという気持ちと、絶対に言ってはいけないというプロ意識が、胸の中でぶつかっていた。
優勝には納得がいかない、ラストの場面はとても良い、第八巻ではどうか普通の負け方をしてほしい――全部、飲み込んだ。
「とても、面白い本ですよ」
使いは満足そうに頷いた。
「主人にお伝えします」
本をしまい、代金を置いて、頭を下げて、出ていく。
戸を閉める直前、思い出したように振り返って、
「ああ、それから――例の冒険者ですが、もう3本向こうの通りまで来ているそうですよ」
「そうですか」
店にひとり残った。
向かいの石鹸屋の主人が「もうすぐ来るぞ、もうすぐ」と興奮しているのが聞こえた。
ドキドキしている自分に気づいた。
長らく火の消えていたこのアイ区に、英雄が、近づいてくる。
どんな人だろうか。
冒険小説の中の覆面剣士みたいに――いや。
僕はふと、自分の作業机を見た。
そこには書きかけのメモが、一枚、置かれていた。
死ぬまでにやりたい事リスト、と隅に小さく書かれた、僕の黒歴史。
子どものころから書きためて、ときどき足して、ときどき書き直して。
ちょうど目次のような一枚紙になっていた。
そこに、はっきりと書かれている。
『本に出てくるような英雄と、友達になりたい』
そのうえに、表紙の取れた小説の中身――糸でかろうじて綴じられている紙の束――をぽとりと載せた。
ちょっとずつ冷静になっていた。
ここは本屋だぞ。
いくらコアを破壊するほど常軌を逸しているからって、冒険者が、本に興味なんてあるのか。
あったとして、本屋で店ごと買い占めるなんてことが、本当にあるか。
狭い工房でずっと本ばかり読んできたけれど、僕はそのくらいの現実は理解していた。
本当にやりたいことができるのは、実力のある者だけだ。
僕はそうではない。
そして、扉の上のベルが鳴った。
見知らぬ女性が、ひょっこりと顔をのぞかせていた。
背が高い。
漆黒の長い髪をひとつ結いにしている。
革の上等な旅装。
そして腰には――禍々しいオーラを放つクリスタル。
コア魔石だ。
話に聞いていた特徴と、一致している。
琥珀色の目が、店の中をぐるりと一周して、こちらを見た。
僕は、自分が手に持っていた目打ちを、からん、と落とした。
来た。
いったい何屋と間違えたのか知らないけど。
「ここ……本屋、ですよ?」
「知っておる」
彼女はゆっくり店に入って、棚の前に立った。
指先がインクで少し汚れていた。
「この棚の本、ここからここまで――」
棚の端から端までを、ゆったりと示した。
「全部買い上げる!」




