フルコースモンスターその6
森が見えてきたのは、出発して四日目だった。
西の山のいちばん奥。
空の色が町とはちがった。
緑を一枚すかしたみたいな色だ。
大量の本を積んだ馬車は、麓の村に預けてきた。
ここから先は、道がない。
ひとりで歩く。
「えー、ここは迷いの森の入り口。初心者の森ですね」
僕は、誰にともなく、しゃべっていた。
「出現するモンスターは、アペルータスに、アミューズメントグール。締めにアントレント。フルコースで言えば、いちばん最初。食前酒から、前菜まで」
――僕の癖だ。歩いていると、つい解説が出る。
本で読んだことを、目の前のものに当てはめてしまう。
昔から、そうだった。
途中でそんな空気ではなくなって、しばらくやめていたけれど。
気づいたら、また出るようになっていた。
頬に、ふっと、涼しいのが来た。
風だ。
僕の風。森のいちばん奥で、生まれた子。
帰ってきたのが、嬉しいらしい。
さっきから、やけに、ぴんぴんしている。
「お前は、いいよなあ。里帰りで」
僕が言うと、風は、得意げに、襟元を撫でていった。
それが来たのは、その直後だった。
背後の茂みが、がさり、と鳴った。
ふり返ると、毛玉みたいな、まるい影。
湯気を、ほわほわ立てている。
香ばしい焦げた豆みたいないいにおい。
「カフェンリル」
僕は、早口になった。
「食後のコーヒー。フルコースのいちばん終わり。小説だとデスアサートの次に出てくる、温厚なモンスターだ。飲み過ぎ注意なだけで、襲っては――」
カフェンリルが、牙を、剥いた。
「……こない、はず……なんだけど」
ぐるる、と低い声。
湯気が、しゅうしゅう、と荒くなる。
まるい目が、据わっている。
本では、温厚なはずだった。
デスアサートの脅威を打ち払った主人公の旅の終わりに、『よくぞ倒してくれた』と褒めたたえてくれる、話の分かるやつ。
けどそれも結局、制作上の都合で、脚色されていただけらしい。
なんで。
なんで、こいつが、こんな、ずっと、僕を、追ってくる。
町を出てから、ずっとだ。
夜、野宿しようとすると、あおぉぉーん、と遠吠えを響かせる。
昼、歩いていると、後ろに香ばしい匂いと足音。
旅人を一瞬たりとも眠らせてくれない。
まさにカフェンリル。
「とにかく、いまは、追い払う」
僕は、背の弓を構えた。エルフの弓。
風に呼びかける。
「風。頼む。一本、強いやつ」
べんっ、と弓の弦を鳴らした。
すん、と風がやんだ。
「……風?」
頬がすうっと寒い。
いない。
さっきまで、襟元ではしゃいでいたのに。
弦を引いて、放つ。
べんっ。
音が鳴っただけだ。
もう一本。べんっ。風の精霊の助力がないと、エルフの弓はただの楽器だった。
「もぉー!」
僕は、思わず叫んだ。
「強そうなやつ相手だと、すぐこれだ! どこ行った!」
怒る気にもなれない。
だってあの子は、ウェルバに脅されて、なかば強制的に僕について来てくれているだけなのだ。
風の精霊が、人間の僕に本当に心を許してくれるなどと思ってはならない。
カフェンリルが、地を蹴った。
すんごい跳躍力。
僕は逃げた。
迷うことなく、即座に全力で。
昔の僕なら、逃げるという判断すらすぐにはできなかっただろう。
いまは、わかる。
勝てない相手からは、逃げる。
それも立派な戦術だ。
――丸一年も無駄に旅をしたわけではない。
「あっ!」
木の根に足を取られた。
転がる。
肩から地面についた。
革袋の中で、本がごとりと鳴った。
まずい。
ふり返ると、湯気の毛玉がもう目の前。
漆黒の牙が光る。
間に合わない。
そんなとき。
――ひゅっ、と。
風を切る音が、横から走った。
目には見えない音の矢が、一本。
カフェンリルの、すぐ鼻先の地面で、ばしゅっと木の葉を弾き飛ばした。
毛玉が、びくりと、足を止める。
ざわざわと森全体を騒がす風が吹いてくる。
その先に、誰かが立っていた。
梢を背に、弓を引きしぼった、小さな影。
見た目は僕より年下の。
その身に何体もの風の精霊をまとわりつかせた。
――弓の達人。
「……だめ、でしょう」
影は、ぽつりと言った。困ったような、声で。
「ちゃんと、精霊には、毎日、お話しなきゃ……」
びゅん、と弦が鳴って、音の矢が、放たれた。
カフェンリルの足元で、風が渦を巻く。
毛玉はひっくり返って、それから、ぽてぽてと、茂みの奥へ、戻っていった。
湯気のにおいだけが、しばらく残った。
僕は、地面に座りこんだまま、その人を見上げていた。
肩から提げた、弓。
すごい美人なんだけど、あいかわらず自信なさげに、すこし丸まった背中。
一年前と何ひとつ、変わっていない。
そういえば、この人は何百年も変わらないんだった。
「……ミユンさん」
ミユンは、僕を見て、それから、僕の、うしろを見た。
誰もいない、森の入口を。
もう一度、僕を見た。
「ひとり、なの?」
彼女は、言った。
「……ウェルバは?」
僕の頬に、ようやく風が戻ってきた。
どうやら逃げたのではなく、助けを呼びにいってくれていたらしい。
なんだかんだで、この風とも一年の付き合いなのだった。
涼しいのが、僕とミユンのあいだを、ひとつ撫でて通った。
「僕も、彼女を探しているんです……友人の貴方だったら、知っているかと思って……」
ミユンは、困ったように眉をひそめていた。




