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一周目の終わり

 ウォトラドから馬車で一日かけて、アイ区に帰ってきた。


 店の戸を開けると、出ていったときのままの匂いがした。

 にかわと、革と、古い紙の匂い。

 締め木は、締めたままだった。

 出発の朝、急いで放り出した束が、まだそこにあった。

 一年間、紙が、待っていた。


 腰のタグを、外した。

 薄い金属の板。

 いちばん下の色のまま。

 パーティのランクは上がっても、結局、僕の色は変わらなかった。

 壁の釘にでもかけようとして、――やめた。引き出しの、いちばん奥に、しまった。


 パーティはもうクビになった。

 僕にはもうあんな冒険はできない。

 僕は、装丁屋に戻った。

 それでいい。

 それで、よかったはずだ。


 ※※※


 次の朝から、本を綴じはじめた。


 ウェルバに頼まれていた、あの本だ。

 子どものころから書きためた、死ぬまでにやりたい事リスト。

 叶わない夢の目録。

 それを目次にする。

 そして道中、僕がこっそり取っていた旅のメモ――それを章にして、綴じる。


 メモは、ひどい字だった。

 獣に追われた夜に殴り書いたもの。

 船の上で、揺れながら書いたもの。

 風の強い高みで、指がかじかんで書いたもの。


 清書しないと、本にならない。


 一日目。メモを順に並べて、清書する。

 弓の師匠の章を写しているとき、僕は、手を止めた。

 何百歳もの、見た目だけ年下の、あの人の弓の引きかた。

 覚えている。覚えているのに、手が、進まない。

 ただの清書なのに、まるで、もう一度そこに行っているみたいだった。


 二日目も、三日目も、同じだった。

 書くたびに、行く。

 森へ、闘技場へ、海へ。

 書き終えるたびに、帰ってくる。

 誰もいない工房に。


 三日で、清書が終わった。

 装丁は、ほかの注文と並行で、五日。

 紙を折り、縫い、背を固め、革を合わせる。

 父から受け継いだ手順を、崩さずに回した。


 待つあいだに、本を読んだ。装丁の仕事は、待つ時間でできている。


 ※※※


 本が、できた。


 革の表紙に、金箔は押さなかった。

 題も、つけなかった。

 何と押せばいいのか、わからなかったからだ。


 無地の、革の本。

 最初の頁を開くと、手垢で柔らかくなった、あの一枚のメモが、目次として綴じこまれていた。

 子どもの落書きみたいな項目が、上から並んでいる。


 その、ほとんどに、線が引いてあった。


 ほとんど。


『冒険者になりたい。冒険者の聖地ウォトラドで初心者パーティを結成し、リーダーに〈お前クビな〉と言われながらも旅を続け、新しい仲間を集めて、元のパーティを見返したい』


『リーダーに〈お前クビな〉と言われ』……まで消えていた。

 その後は、まだ消えていなかった。


 僕は、本を閉じた。

 あとは、彼女が、取りに来るのを待つだけだった。


 来なかった。


 一週間。何日かおきに、彼女は来る人だった。あの最初の日から、ずっと。

 何日かおきに、革袋を置いて、束を持って、出ていった。


 二週間。ベルは、別の客のためにしか、鳴らなかった。


 三週間。仕上がった本が、棚に積み上がっていった。

 彼女に渡すはずだった本だ。

 受け取り手のない束が、新しい仕入れの場所まで、占めはじめた。

 これ以上は、置けない。商売に、ならない。


 一か月。


 その間に、僕はずいぶん本を読んだ。

 覆面剣士の、新しい巻も出ていた。家紋の使いが、また革装を頼みに来た。前の巻のときと、同じ顔で。


「お読みになりましたか」

「読みました」と僕は答えた。


 昔は、優勝の場面に納得がいかなくて、酒場でひとり飲む場面だけが、悔しいくらい良かった。

 今度のも、面白かった。

 これはこれで、よくできていた。


 ただ――前みたいに、胸の奥が痛くはならなかった。

 僕は、もっと面白い冒険を、知ってしまっていた。

 本物の風と、本物の海と、本物の――


 そう思うと、ページの中の覆面剣士が、急に小さく見えた。


「とても、面白い本ですよ」と、僕は使いに言った。


 昔と同じ台詞だった。中身だけが、ちがっていた。


 ※※※


 机の引き出しを開けると、写真が一枚、入っていた。


 空の城で撮った、世界に一枚の写真。

 複製のできない、あの石のカメラの。

 神妙な顔で並んだ、僕とウェルバ。


 もう一枚は、彼女が持っている。

 革袋の奥に。ふざけた顔で写った、もう一枚を。


 僕は、それを、しばらく見ていた。

 元気にしているだろうか、なんて、ふつうの友達みたいなことを、思おうとした。

 思えなかった。

 彼女が、あとどのくらい生きられるのか、僕は知らない。

 デスアサートが言った、あの言葉しか、知らない。

 あと数年という言葉。


 気が向いたら取りにくる、と彼女は言った。

 ――気が向く前に、何かあったとしたら。


 その続きは、考えないことにしていた。

 いままでずっと考えないことにして、一か月、待った。

 もう、待つのは、やめだ。


 ※※※


 取りに来ない客がいるなら。

 装丁屋がすることは、ひとつだ。

 こちらから、届けに行く。


 でも、どこへ。

 どこへ行けばいい。

 僕は、彼女がどこへ行ったのか、知らない。


 知っているのは、彼女の友達だ。


 森の精霊たち。あれは彼女と古い縁があるようだった。


 それから、ミユンさん。

 迷いの森で、僕らを助けてくれた、あのエルフの弓使い。


 ――そういえば、ミユンさんとも、あれきり、会っていない。元気だろうか。


 まず、森だ。

 東の山のいちばん奥。人間はまず行かない。

 一度目は、ウェルバが手綱を握って、連れていってくれた。


 お主のリストのいちばん上だ、と、目次でも読み上げるみたいに。

 今度は誰も、連れていってはくれない。


 道は覚えている。

 書いて、清書して、綴じたばかりだ。


 僕は、本を開いた。


 目次の、線の引かれた項目の、いちばん下。

 まだ何も書いていない余白。

 ペンを取って、そこに一行、足した。自分の字で。


 ――もう一度、ここに書かれている場所を、見て回りたい。


 死ぬまでにやりたい事リスト、追加の一行。


 本をいちばん上等な布で包んだ。

 彼女が残していった本も、馬車に積めるだけ積んだ。


 引き取りに来ると言った、残りの本だ。

 戸に、しばらく留守にする、と札を下げた。

 向かいの革職人が、目を丸くした。


「アルスさん、あんた、どこへ」

「お得意さんに、本を届けに」と僕は言った。「ちょっと、遠いんですが」


 引き出しの奥から、冒険者のタグを出して、もう一度、首に掛けた。

 いちばん下の色のまま。重さには、もう、慣れていた。


 西へ。

 山のいちばん奥の、人間がまず行かない森へ。

 彼女の、友達に、会いに。


 馬車の御者台は、僕ひとりだった。

 手綱を引かなくても、馬は、前へ前へと進んでいく。誰に言われるでもなく。

 ――彼女が、いつも、そうしていたみたいに。

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