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追放ざまぁ

 山を降りるのに、三日かかった。


 半年の泊まりこみを終えた研究員たちの下山組を、ふもとまで送り届ける。

 それが、今回のクエストの後半だった。


 入れ替わりに、コレットたちが、上に残る。


 研究員たちは、半年ぶんの観測記録を、背に負っていた。

 紙の束を。

 革の筒に詰めて、油布で包んで、それでもまだ心配そうに、何度も背中を確かめていた。


 濡らすな、落とすな、と僕は何度も言われた。

 言われなくても、わかっていた。

 紙を運ぶ仕事の気持ちは、よくわかる。


 ウェルバは、山道のあいだ、上機嫌だった。

 崖の縁を、研究員のだれよりも軽い足どりで歩いて、ときどき後ろを振り返って、遅いぞ、と笑った。


 来た道を、彼女はもう一度も振り返らなかった。

 いちばん上の、風のよく通る場所のことは、もう口にしなかった。


 ※※※


 ウォトラドの冒険者ギルドに着いたのは、夕方だった。


 受付の台に達成の報告をして、判子をもらって、報酬を受け取る。

 研究員たちは、ひとりずつ礼を言って、それぞれの帰り支度へ散っていった。革の筒を抱えたまま。


 半年ぶりの、町の灯りだ。彼らの足は、少し、急いでいた。


 このギルドに来ると、我が家に戻ってきたような気分になった。

 受付の女の人が、笑顔で言った。


「バゲットドラゴン団さま、おつかれさまでした。いい護衛でしたね」

「うむ」とウェルバは、なぜか得意げだった。「うまそうな名であろう」


 酒のカウンターは、登録の台とは別に、離して設けてある。

 ウェルバは、当然のように、そちらへ歩いていった。


「一杯やろうではないか。達成の祝いだ」


 彼女の奢りだった。革袋を、どん、とカウンターに置く。


「今日の客、全員に一杯おごりだ」


 あちこちから口笛と拍手があがった。

 混んでいた。

 冒険者の声と、皿の音と、火の番をする者のいない炎のランプ。

 奥の卓で、見覚えのある男が、こちらにちらと目をやって、それから杯を持ち上げて、自分の酒に戻った。


 登録の日に、新入りに絡んできた男だ。あのときは、ウェルバが炎を出しただけで、黙った。

 もう、絡んでこなかった。僕らは、もう、新入りではないらしかった。


 ウェルバは、よく飲んだ。

 天空城の風はどうだった、コレットという娘はよく喋った、研究員の背負っていた筒は何が入っていたのだろうな――と、降りてきたばかりの三日を、もう懐かしむみたいに、しゃべった。


 僕は、聞いていた。

 あいづちを打ちながら、頭の隅で、別のことを数えていた。


 それを、僕は、口には出さなかった。出したら、何かが終わってしまう気がした。

 たぶん、もう、終わりかけているのに。


 ※※※


 ウェルバが、杯を置いた。


「アルス」と彼女は言った。


 いつもの、お主、でも、アルス殿、でもなかった。

 ただ、アルス、と。


「お前、クビな」


 店の音が、急に、遠くなった。


 お前クビな。

 ――僕は、その台詞を、知っていた。よく、知っていた。


 愛読書のいちばん最初の頁。

 宮廷を追われる、覆面剣士の。

 あらゆる追放ものが、その四文字から始まる。


 クビにされた主人公は、酒場を出て、新しい仲間を集めて、いつか元のやつらを見返しに行く。

 ずっと、言われてみたかった台詞だ。

 誰かに。一度くらい。

 言われるはずが、ないと思っていた。

 外に出られない人間には、追われる場所すら、なかったから。


 それを、いま、言われた。

 達成の祝いの、二杯目の途中で。世界でいちばん強い人に。


 胸の奥が、痛かった。痛いのに、なぜか、あたたかかった。


「……本は」と、僕は言った。


 ほかに、言うことが、いくらでもあったはずだ。

 なぜ、とか。

 これからどうする、とか。

 せめて、寂しい、とか。

 なのに、僕の口から出たのは、それだった。


「本は、どうするの」


 ウェルバは、ほんの少し、目を細めた。

 それから、いつもの口調に戻って、言った。


「うむ。まだ、お主のところに、渡しきっておらぬ本が、残っておったな」

「……はい」

「ならば、いずれ、取りに行く。残りと、まとめてな」


 彼女は、杯のふちを、指でなぞった。

 本の革を確かめるときの、あの丁寧な指で。


「気が向いたら、取りにくる」


 ――何日かおきに、受け取りに来る。

 あの日、棚の本を端から端まで買って、彼女はそう言った。

 言葉どおり、彼女は来た。何度も、何度も。

 革袋を置いて、できた束を持って、出ていった。


 いまの台詞は、それと、よく似ていた。

 よく似ていて、たった一語、ちがった。

 何日かおきに、が、気が向いたら、に。

 なぜちがうのか、僕には、わからなかった。

 わからないまま、その変わった一語の場所が、やけに、気にかかった。


「綴じておきます」と、僕は言った。「ちゃんと、いいやつに。いつ来ても、いいように」

「うむ。頼んだ」


 彼女は、満足そうに頷いて、また、杯を傾けた。


 それで、終わりだった。

 追放ものなら、ここから物語が始まる。

 けれど、僕には、見返しに行く相手も、集める仲間も、まだ、いなかった。


 愛読書とは、何もかも、ちがっていた。

 ちがっていて、――これが、いちばん、良かった。


 席を立った。

 パーティを追放された主人公は、酒場を出ていくものだと、本に書いてあった。

 それだけは、合っていた。


「では、僕は」

「うむ。気をつけて帰れ」


 彼女は、立たなかった。

 まだ、冒険者だ。

 リストには、手つかずの項目が、ひとつ、残っている。

 一日じゅう、魚を見て、ぼーっと過ごす――いつかやる、と彼女は、前に言っていた。いつでもできる、と。

 だから彼女は、ここに残って、飲んでいる。


 戸口で、一度だけ、振り返った。

 カウンターの、彼女の背中が見えた。

 漆黒の髪のひとつ結い。

 腰の、禍々しいクリスタル。

 革袋の口から、四角い角が、ひとつ、覗いていた。

 複製のできない、世界に一枚の写真の角だ。

 彼女は、こちらを見ていなかった。次の一杯を、頼んでいた。


 僕は、戸を押した。


 外はもう夜だった。


 アイ区まで、馬車で一日。

 明日の朝いちばんの便を、つかまえないといけない。


 帰ったら、締め木を出して、残りの束を順に綴じよう。

 一日に紙を折り、翌日に縫い、次の日に背を固める。


 父から受け継いだ手順を、崩さずに回す。

 彼女が来るたびに、渡せるだけの本を、用意しておく。


 いつも通りの日常に戻っただけだ。これからも、そうすればいい。


 装丁の仕事は、待つ時間でできている。


 膠が乾くのを待つ。背が落ち着くのを待つ。表紙が馴染むのを待つ。

 そして、取りに来る人を、待つ。


 僕は、夜の道を、歩きだした。

 気が向いたら、と彼女は言った。

 気が向いたら、来るのだ。だから、待っていればいい。

 いいやつに、綴じて。


 ――いつ来ても、いいように。


 うしろで、ギルドの灯りが、まだ、明るかった。

 僕は、帰り道を急いだ。

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