騎士とドラゴンの物語
地面に影が落ちた。
生垣の向こう。
ウェルバが降り立った。旅装のまま人間の姿で。
けれどその背に、さっきまでなかった熱がかげろうみたいにゆれていた。
彼女は両手を口の横にあてて、家じゅうに響く声で叫ぶ。
「お主を倒すために! 必殺の魔法を考えて来たのだー!」
「この背中の傷を、忘れたとは言わさんぞー!」
必殺の魔法。
考えて来た。
……たぶん、道中ずっと、わくわくしながら。
返事はない。
ウェルバが、きょろきょろとあたりを見回す。
そして、生垣にへばりついたままの僕を見つけた。
「ぬっ!?」目をまんまるにする。「いつの間にいたのだ、アルス! ここに勇者らしき者は、おらなんだか!?」
いない、と言おうとした。
でも、息が続かなかった。
あんな飛び方をしたあとだ。喉の奥が、ひゅう、ひゅう、と鳴るばかりで。
「あ……ゆ、勇者、は……」
ゲホッ。
ゲボッ。
「…………」
最悪だ。嘘のひとつもつけない。
「ふむ。どこぞに隠れておるな」ウェルバは勝手に納得した。「探すのだ! どこかにヒントがあるやもしれぬ! 探せー!」
そして、始まった。
指先に、ぽっ、と火を灯して。
その手を見えない拳銃でも握るみたいに、まっすぐ立てる。
壁にぴったり背中をつけて。
すすす、と横歩き。角から、ちらっ。引っこむ。また、ちらっ。
ときどき、火を灯した指先を、ばっ、とあらぬ方へ向ける。誰も、いないのに。
そうかと思えば、いきなりテーブルを蹴ってひっくり返した。
……騎士道物語の家探しする悪党みたいだった。
ちなみに、探偵小説が流行るのはもう少し後の時代なので、このときのウェルバに探偵という概念はなかった。
ガタッ、と。
奥の戸が開いた。
ロランが出てきた。
隠れていたはずの人が。
「まて、ドラゴンよ」
「あっ……!」僕は思わず叫んだ。「ど、どうして出てくるんですか……!」
「このまま家を荒らされては敵わんだろうが」
彼は苦笑いで肩をすくめた。剪定鋏を、まだ手に持ったまま。
ウェルバがふり返る。
灯した火を、ロランの顔にかざした。
炎が、老いた頬の皺を、ゆらゆらと照らす。
その目を、彼女はじっと見て――。
何かがおかしい、というふうに眉をひそめた。
「……お前は誰だ?」
ロランは、まっすぐその火を見返した。
「十六代目、勇者。ウォルフガング・ロラン」
名乗って、すこし間を置く。
「お前が探しているのは……おそらく、十五代目だ。この東部でドラゴンと戦ったことのある……最後の勇者。名を、ジークミュート、という」
ジークミュート。
その名に、ウェルバの火がゆれた。
琥珀色の目の奥が、不安に揺れているのがわかった。
覚えているのだ。
ずっと、ずっと昔に自分を地に這わせた、男の名を。
「だが」とロランは続けた。静かに。「私も、その人には会ったことがない。私が生まれるより前に、勇者を引退した人だ」
剪定鋏の先で、彼は地面を軽く指した。遠くの、どこかを。
「――もう、とうに亡くなっている」
僕はそのとき、あたりまえのことを思い出していた。
ドラゴンは、もう、いない。
紀元二百年。空の城が落ちてから。
生き残りの竜が、世界のあちこちで見つかった、という話はあった。
まだどこかのダンジョンに、財宝を持ったドラゴンが潜んでいるかもしれない。
けれど、そのどれもが、いつの間にか姿を消していた。
いつ、どの勇者に、どう退治されたのか――どれも、噂話の域を出ない。
僕が夢中で読んできた、竜と勇者の物語。
あれは、ぜんぶ、ずっと昔に書かれたものだ。
新しい竜の話なんて、もう、どこにも出てこない。
新しい竜が、いないからだ。
ロランがつけ加えた。
「記録に残る竜との最後の交戦は……千六百七十年。もう、百年以上も前になる」
百年以上。
ロランは、もう、何も言わなかった。
ひっくり返された椅子を、ひとつ起こして。
また、薔薇のほうへ戻っていく。
ウェルバの指の火は、いつのまにか消えていた。
荒らした部屋のまんなかで、彼女は、しばらく立ちつくしていた。
――それから、僕らは、また二人に戻った。
国境を、いくつも越えた。
言葉の違う町ごとに、年寄りをつかまえては尋ねた。
昔ドラゴンを討った勇者の話を。
たいていは、首を振られた。
なかには、おとぎ話だと笑う者もいた。
竜なんて、もうおとぎ話なのだ。
そのすぐ隣を。本物がしょんぼり歩いているとも知らずに。
それでも、たどっていくと。
遠い、異国の、村はずれの丘に。
苔と蔦に半分埋もれた、ちいさな墓石が、ひとつあった。
刻まれた名前は、かすかにジークミュートと読めた。
ウェルバにはわかったのだろう。
墓石の前に、ぺたん、と座りこむ。
あの巨大なドラゴンが。膝を抱えて。
「そうか」とつぶやく。「もう、百年も……経っていたのか」
いつもどこか火照っていた、その指先が。
いまはひんやりと土をなでていた。
「人間は……すぐに、逝ってしまうな」
革袋から、あの折りたたんだ紙を取り出す。
線で消された項目の、いくつも下にある。消えない一行を、指でなでた。
――勇者に、もう一度会う。
「力を失う前に」墓石に語りかけるように。「いちど悔いの残らぬ戦いを、と。思うておったのだがな」
ふ、と笑う。
「とうとう、果たせなんだ」
力を失う前に。
彼女のその言葉が、胸に、ことり、と落ちた。
死ぬ前にやりたいこと。
大げさに言っているだけなのだと思っていた。
だってこの人は、明らかにどの人間よりも圧倒的に強くて、まだまだ若く見える。
ちがった。
このドラゴンは、本当に。
もう、すぐなのだ。
膝を抱えて、しょんぼりと墓石を見上げているその背中は。
空を飛ぶ竜のものじゃ、なかった。
いつもの、ウェルバだった。
僕は彼女になんて声をかければよかったのだろう。
僕は自分のリストを指でなぞった。
ビヒーモスの肉。海の星。本のなかから出てきた、化け物たち。
不可能だと、僕が最初から諦めていた夢を。
ぜんぶ、この人が現実にしてくれた。
ずっと守られて、運ばれて、叶えてもらうばかりだった。
籠の中から、世界を見ていた。
でも――。
僕は、墓の前にしゃがんだ。
はじめて、彼女とおなじ目の高さになる。
「……諦めちゃダメだよ」
声がすこし震えた。
いつも、僕を見下ろして笑っていた竜が。
いまは、すぐとなりで。おなじ地面に座っている。
「……まだ諦めちゃ、ダメだ」
その、ちいさな背中を見ているのは。
たぶん、世界で、僕ひとりだけだった。
※※※
しおれた花の出どころを、僕らは村でたずねてまわった。
古い剣士の墓に花を供える者。すぐに知れた。
村はずれのちいさな家に、若い母親がひとり。
その腕に、生まれていくらも経っていない赤ん坊を抱いて。
ご先祖さまのことをたずねると、女の人は不思議そうに首をかしげた。
「さあ……ずうっと昔の人で。剣のお役目だった、とか。立派な人だったと聞いてはいますけど」
もう、それだけだった。
竜と戦った最後の勇者は、ひ孫のそのまたずっと先では、「立派だったらしいご先祖さま」になっていた。
ウェルバが進み出た。
そして若い母親の前で、その腕の赤ん坊の前で、すっと片膝をついた。
「余は、お主の祖先を知っている」と彼女は言った。おごそかに。
母親がきょとんとする。
「認めよう。強い男であった。悔しい事に。――勝ち逃げされてしまったな」
ふ、と笑って、節くれた指をそっと赤ん坊の額に当てた。
なにか低い、聞いたこともない言葉をつむぐ。
空気がいっとき、しんとなった。吹いていた風が止まる。
指先からほんのりと、あたたかいものが小さな額にしみていく。
さっきまでぐずっていた赤ん坊が、きゃっと笑った。
「お主に守護をさずけよう」
ウェルバは立ち上がった。
「この子のゆく道に、災いの寄らぬように」
若い母親は、何が起きたのかわからないという顔で、それでも腕の中の機嫌のよさにつられて、すこし笑った。
ありがとうございます、と、よくわからないまま頭を下げる。
その人はたぶん一生、知らないだろう。
いま自分の子の額に手を当てたのが、ご先祖さまが命がけで戦った、本物の竜だったことを。
――知っているのは、僕ひとりだった。
村を出て、来た丘の上で、ウェルバは革袋から、あの折りたたんだ紙を取り出した。
ずっと消えずに残っていた一行に、すう、と線を引く。
――勇者に、もう一度会う。
その紙をぱたぱたと振る。
墓の前のしょんぼりは、もうどこにもなかった。
いつもの豪快な顔で僕を見る。
「さて」
にっと笑った。
「次は――お主の番だ、アルス」




