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勇者に会いに行く

 焼けた肉は、まだ、湯気を立てていた。


 ジュジューモスの、こんがりした脇腹を、ウェルバが短い刃でそぎ落とす。流木に刺して、ほい、と僕に渡してくる。

 ひとくち噛んだ。

 脂が舌の上ではじけた。焦げ目の香ばしさの奥から、じわりと甘みがこみあげてくる。世界中のどんな本にも書いていない味だった。書けるわけがない。これは食った者にしかわからない。


 不思議な気分だった。

 数刻前まで空の雲を蒸発させていた化け物を、いま僕は夢中で食べている。

 隣では、ドラゴンが指まで脂だらけにして、塊にかぶりついていた。子どもみたいに。


 世界一の肉を食う。

 僕のリストの一行だった。叶うわけのない妄想だった。

 それが口の中で、ぱちぱちはじけている。

 涙が出そうになったのは、肉が美味すぎるからだ。


 腹がくちくなって、二人とも冷えていく砂の上に、大の字に寝そべった。

 ウェルバが、ふいに腰の革袋から折りたたんだ紙を取り出した。

 彼女自身のやりたい事リストだ。


「さて」と、彼女は満足げに息をついた。「お主の番は、すんだな。次は余のやりたい事だ」


 節くれた指が、紙の上をたどっていく。線で消された項目を、いくつも越えて。

 最初の消されていない一行で、止まった。

 僕もつい、横から覗きこんだ。


 ――勇者に、もう一度会う。


 最初に見たときは、別段気にも留めなかった。

 勇者。本で読んだ、あの勇者だ。

 これだけ強いのだから、昔の知り合いだろうか。世話になった礼でも、言いたいのかな。のんきにそんなことを考えていた。

 だが、ウェルバの正体を知った今では、その意味が変わってくる。


「……会ってどうするの」


 ウェルバが、急に真顔になった。

 石を噛んだみたいな顔で。


「奴はな」と、彼女は言った。「余の背中に、キズをつけたのだ」


 琥珀色の目が、ぼっと火を噴いた。苛立たしくて仕方ない、という風に。


「許さん! ぜったいに許さーん!」握った拳を、ぶんぶん振る。「死ぬ前にいちど、余の強さを思い知らせてやるのだ!」


 肉が喉のところで、止まった。


 余の強さを、思い知らせる。

 ウェルバの本当の強さを、僕はさっき見た。

 ジュジューモスが、こんがり焼き上がるのを。

 それをまさか、ひとりの勇者にぶつけようと言うのか。


 顔からすうっと、血の気が引いていった。


 ゆ、勇者……逃げて!

 全力で逃げて――!


 ウェルバの怒りは、本物だった。

 彼女はおとぎ話に出てくるドラゴンだったのだ。

 ……止めなきゃ。

 止められる気はまるでしなかったけれど。


 それから、どうやって海から陸へ戻ったかは、よく覚えていない。

 ウェルバにひょいと小脇に抱えられて、飛んだ。それだけは覚えている。風が冷たくて彼女の腕だけが、あたたかかったことも。


 陸に降りてから、僕はウェルバに連れられ、勇者を探した。

 ウェルバは行く先々で、触れまわった。「勇者はどこだ! 余は勇者に、会いに来たのだ!」


 わかったことは、こうだ。

 勇者の称号もちは、もう初代を生んだイーサファルト本国にはいなかった。

 あの国は腕の立つ戦士ならいくらでも生んで、各国に送り出している。

 けれど勇者は、別格だ。

 魔王に並ぶほどのとほうもない魔力を、生まれつき持っていなければなれない。

 そして育てるにも、国がひとつ傾くほどの金と人手がいる。

 割に合わない。

 そもそもあの国は勇者を育て上げただけで、勇者はもともと外国人だったという。

 今はイーサファルトに寄りかかった小さな属国が、まわりの国から金を集めて、ほそぼそと勇者をひとり抱えている。


 その勇者には、もう戦う相手もいない。

 現代のダンジョンの中に生息している、星100程度のボスモンスターでは、相手にならない。

 かと言って、ダンジョンコアを破壊されても困る。

 どの国も、自国のダンジョンを破壊されると困るのだ。

 国境ちかくの寂れた郊外で、退役した老兵みたいにのんびり暮らしているらしかった。


 勇者の居場所がわかった。

 その瞬間。

 僕はこっそり、駆け出していた。


 ウェルバはまだ、聞き込みをしている。気づかれるまでに、すこしでも距離をかせいだ。

 でも、相手は飛ぶ。

 走って勝てるわけがない。


 僕は風に頼んだ。

「……ごめん。力を貸して。飛びたいんだ」


 弱々しい風が、僕の旅装の裾を、きゅっと引っぱった。


 出来るはずだ。

 音を風に乗せて飛ばした要領で。

 自分を矢にして飛ばす。

 風が僕の背中で、ぐうっと引き絞られて――放たれた。


 足先から地面が、いっきに遠のいた。

 風が耳の横をちぎれそうな勢いで流れていく。畑が、家の屋根が、川が、目の下をものすごい速さで過ぎていった。

 着地はひどいものだった。二回に一回は転がって土まみれになって、また風にしがみついて飛ぶ。

 それでも走るより、ずっと速かった。


 いちど肩ごしに振り返った。

 遠い空のずっと奥に、黒い点がひとつ見える。

 まっすぐこっちへ伸びてくる。

 ウェルバだ。

 点はみるみる大きくなっていく。僕がよろよろ飛ぶあいだに、あの人は一直線に飛んでゆく。

 追い抜かれるのは、目に見えていた。

 だけど――その前に。


 寂れた家にたどり着いた。


 国境のはずれ。低い生垣に囲まれた、古い石の家。

 その庭で、ひとりの男がのんびりと薔薇の枝を剪っていた。

 歳のいった人だった。けれど背筋はまっすぐで。

 色あせた外套の肩に、昔、立派な徽章がついていたらしい、留め跡が残っていた。

 顔を上げて、僕を見て、おだやかに、微笑む。


 ひとめでわかった。

 本で読んだ、剣を掲げた輝かしい勇者の絵とは、似ても似つかない。

 でも、この人だ。


 僕は、息も絶え絶えに、生垣に、すがりついた。

「いますぐ……ここから、逃げて、ください」

「……はて」

「詳しいことは、何も、言えません。とにかく、しばらく、身を隠していてください。お願い、します」


 勇者ロランは、剪定鋏を置いた。

 息を切らした、見知らぬ若造の必死の顔を、しばらく見ていた。

 それから、ふっと、笑った。

 昔、何度も誰かを守るために剣を抜いた人の。そういう、慣れた、静かな笑い方だった。


「わけは聞くまい」と、彼は言った。「その顔は、嘘をつく顔ではないのでな」


 剪ったばかりの薔薇を一輪、僕の手に握らせて。

 彼は生垣の奥へ身を隠した。


 ほっと、したのも、つかのま。


 空が、陰った。

 屋根の上を、大きな影がよぎる。

 地面が、ずん、と揺れた。

 そして、聞こえてきた。

 あの、本のページから抜け出たような、よく通る声が。野原じゅうに、響きわたる。


「勇者ー! いるかー! 余と勝負するのだー!」


 僕の手の中で。

 薔薇の棘が、てのひらに、ちくりと刺さった。

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