フルコースモンスターその4
灰の島に、僕とウェルバだけが残されていた。
砂浜が凍りついていく。
さっきまで足を焼くほど熱かった黒い砂が、白い霜をまとって、ぱきぱきと鳴った。
冷えた鉄のにおいが、濃くなる。
沖を見た。
立ったまま凍りついた波の、その向こう。
白く平らになった氷の上を、何かがこちらへ歩いてくる。
甲冑だった。
頭の先から爪先まで、青白い氷でできた、大きな騎士。
一歩ごとに足もとの海が、みしりと凍りなおす。
手には長いもの。
あれは――剣だ。氷の、剣。
知っている。本で、読んだ。
つい、口の中が早口になった。「グラナイト……迷宮のゲートを守る、凍りついた騎士。モンスターは、強いほど身体が灼けて熱くなるから……それを冷ます、口直しのアイス……常に巨大なボスと、いっしょに棲んでる――」
言いながら、背中が冷たくなった。
こいつには冷ます相手がいる。
つまり、この氷の下には、とんでもなく熱い何かが。
グラナイトが、ウェルバの前で足を止めた。
来る、と思った。僕は籠の格子を、両手で握った。何ができるわけでもないのに。
けれど騎士は、剣を構えなかった。
かわりに――片膝をついた。
氷の関節が、ぎし、と軋んだ。大きな兜が深く垂れる。
ウェルバに向かって。臣下が、王にそうするように。
わけが、わからなかった。
「なんで……」声が、勝手にこぼれた。「だって小説では……グラナイトは……」
そういえば、グラナイトが仕えていたのは、ヴィアンドラゴンだった。
あの冒険小説。紀元ゼロ年が舞台の、あの話。
妙に細かい時代考証で、書いてあった。
世界がいちばん魔法に満ちていたころ、グラナイトは当時いちばん強い種族の――ドラゴンの露払いだったと。
読んだときは、ふうん、と思っただけだった。
でも、今はドラゴンのいない時代。
グラナイトは、しかたなく別のボスを冷やして守っているという。
どうして、今。
この騎士は、ウェルバにひざまずいているんだろう。
彼が最上級の敬意を示す相手は……ドラゴンだけだ。
小説に、そう、書いてあった。
じゃあ――。
ウェルバは、ひざまずいた騎士を見下ろしていた。
その目を、僕は見たことがなかった。
叱るのでも、憐れむのでもない。
ずいぶん昔から知っている相手を見る、そういう目だった。
「まだ寝ておらなんだか」と、彼女は言った。やわらかい声だった。「もうよい。休め」
騎士の身体が、端から、ほどけはじめた。
氷が、光になる。
青白い粒が、剣から、肩から、垂れた兜から、いっせいに立ちのぼって、暮れかけの空へ、散っていった。
歴戦の海賊たちを、ひと睨みで逃がした騎士が。
ひとことで、眠るように消えた。
その途端だった。
冷ますものが、いなくなった。
凍りついていた海が、内側から、ぼこり、と鳴った。
白い氷に亀裂が走る。
一本、二本――みるみる、蜘蛛の巣のように広がって。
その下が、赤い。
熱い。さっきまでの寒さが、嘘みたいに。
海が、割れた。
水柱と湯気のなかから、それは、せり上がってきた。
山みたいだった。
備長炭みたいに、赤く灼けた鱗。
四本の脚から、黒い煙を噴いている。
空の雲が、近づいただけで、すうっと蒸発して消えた。
頭の上を横切ろうとした鳥が、白い灰になって、ぱらぱらと落ちてきた。
「ジュジューモス……」
また、口が、勝手に動いた。
「鉄板で焼くと、美味しい、巨大なモンスター……――だけど、これは……」
ちがう。
これは、僕が図鑑で見たジュジューモスじゃない。
魔力を浴びて、浴びすぎて、『祖先帰り』を起こしている。
災害級。星三桁。
古い、古い時代の、ばけもの。
ジュジューモス《ベリーウェルダン》。
僕はずっと夢に描いていた。
『ジュジューモスを倒して、世界一美味い肉を飽きるほど食べたい』
けれど、こんな奴があらわれるなんて、考えてもみなかった。
「アルス」
ウェルバが、言った。
あいかわらず、本のページからそのまま抜け出てきたみたいな、透き通った声で。
「よう、見ておれ。――こういうのを、待っておったのだろう?」
彼女の身体から、文字が、こぼれた。
一文字、二文字、ではなかった。
何百、何千という黒い文字が、鳥のように宙へ飛び出した。
それらが集まって、紙になる。
白い紙がばさばさと湧いて、彼女の身体を覆っていく。
紙の勢いは止まらなかった。
増えて、巻きあがって、ばさばさと音を立てて。
砂浜から空を横切り雲の方へ。見上げるほどの紙の塔になった。
その塔が、内側から突き破られた。
まるで繭のように。
出てきたのは、竜だった。
紙をばさばさまき散らしながら、みるみる大きくなる。
さっきの塔より、ジュジューモスより、まだ大きく。
背にはひらいたり閉じたりを繰り返す――分厚い魔導書の背びれ。
その竜は、二本の脚で立っている。
竜が口を開けた。
その声はウェルバの声だったようで、まるで別人のようでもあった。
地の底から、響いてくる。
「ひれ伏すがいい」と、竜は、言った。「余の蔵書は、三万冊である」
この人は――いや、この竜は、どこまでもこの人だった。
背びれの魔導書が、ばさっばさっ、とはためいた。
ひらいたページの文字という文字が、青白く光りはじめる。
膨らんだ喉元に、その光が集まっていく。
ジュジューモスが、咆えた。
赤い口から熱の塊を吐く。
竜はそれらを避けもしなかった。
かわりに口を開けて。
白い光がまっすぐ走った。
目をつぶった。
まぶたの裏が、真っ白になる。
世界がいちど音をなくした。
――気づくと。
赤かったものが、ない。
海に湯気が立っていた。
氷はすっかり溶けて。
割れていた波が、ふつうの波に戻っている。
砂浜に巨大なものが横たわっていた。
赤かった鱗がこんがりといい色に焼けている。
香ばしいにおいがした。
竜の姿は、もうなかった。
紙がひらひらと降ってくる。
そのなかに、ウェルバが立っていた。
もとの彼女のままで。
革の旅装も、抱えた本も、腰のクリスタルも、なにひとつ焦げていない。
彼女は、僕の籠の留め金をぱきりと外した。
「待たせたな」
僕は、すぐには、籠から出られなかった。
膝が、笑っていた。座りこんだまま、彼女を、見上げる。
ドラゴン。
本当に。
バゲットドラゴン団。死ぬまでにやりたいこと発表ドラゴン。ドラゴンを名乗る者ぞ。
この人は全部、本当のことを言っていたんだ。
僕が勝手に大言壮語だと、ほら話だと思っていただけで。
「……ウェルバは」やっと、声が出た。「ドラゴン、だったんだ」
「言うておったであろう?」
彼女は、心外そうに首をかしげた。
「最初から、ずっと、な」
それから横たわった巨体を、顎でしゃくった。
「それより、肉だ。冷めぬうちに食わねば、もったいないのである」




