海賊たちの流儀
暗い水の中を、長いこと引きずられていった。
息が続かなくなる手前で、ぐいと引き上げられた。
日の光が目に痛い。
咳きこむ僕を、何本もの濡れた腕が、軽々と運んでいく。
砂の感触。それから、編みかごのようなものの中に、ぽいと放りこまれた。
流木と、白い骨のようなものを編んだ、大きな籠。
人がひとり膝を抱えて座るのがやっとだ。
格子のあいだから外が見える。
白い砂浜と岩。
岩には漁の網と銛、見たこともない大きさの魚の骨が、ずらりと干してあった。
僕は、反射的に胸もとをさぐった。
メモ帳がない。
それだけのことが、なぜだかいちばんこたえた。
女たちが、僕を取り囲んでいた。
みんな髪が濡れていて、よく日に焼けている。
腕や首にちいさなウロコが散っていて、それが陽を弾いて、ラメみたいに光った。
蛇の――そう、本で読んだ。人と蛇の魔物の混血。
宮廷料理人の話に出てくる、古い古い部族だった。
つい、口の中で、早口になった。
「ポワゾネス……紀元ゼロ年から存在が確認されている、海の部族。その時代から人と交わらず、海に棲んでいるという。人間との融和も、最後まで拒んだ――」
「へえ」と、声がした。「よく知ってんじゃん」
女たちが、さっと道をあけた。
奥からひとり、歩いてきた。
若い。たぶん、僕より年下だ。
髪が、もつれて束になって、目もとをほとんど隠している。
その隙間から、鱗の散った頬と、にやけた口もとだけが見えた。
爪が長くて、やはりラメのように光っている。
古い部族の長、というより、どこかの港町で見かけそうな、今どきの娘に見えた。
「あーし、アルヴィーダ」と、その娘は言った。「この子らの、頭領。よろしくね」
よろしく、と言われても。
「あんた、あの強い姉ちゃんの、連れでしょ」アルヴィーダは、籠を、つんとつついた。「船から飛んできそうな、強そうなの。あーし、ずっと、ああいうの待ってたんだよね」
「待ってた……?」
「勝負すんの」彼女は、にいっと笑った。「あーし、釣りで、負けたことないの。一回も。だからさ、強いのが来ると、わくわくすんだよね。今度こそ、あーしを負かしてくれるんじゃないかって」
だから、人質を取ったのか。
強い相手を、釣りの勝負に引っぱり出すために。
僕はただの餌だ。
アルヴィーダが、ふと、僕の顔を覗きこんだ。
髪の隙間の目が、僕の指先を、見ている。
「キミ、精霊、使えんでしょ」
どきりとした。
「弓のとき、風、呼んでたよね。海ん中から、見てた」
「……見て」
「いいね、それ」彼女は、くすくす笑った。「キミも連れて帰ろっか」
ぞっとした。
連れて帰って、どうするのか。
ポワゾネスは、女だけの海賊団だ。
これまで攫った男たちは、どうなったのか。
誰も、何も、言わなかった。
女たちは、ただ、にこにこ笑っていた。
そのとき、空が、影になった。
風が、巻いた。
砂が、舞い上がる。
海賊たちが、いっせいに、空を仰いだ。
籠の格子からは、空が見えない。
何が降りてきたのか、僕には、わからなかった。
わからないまま――気づくと、砂浜に、ウェルバが立っていた。
濡れてもいない。息も、切らしていない。
さっきまで、海の機雷原のただ中にいたはずなのに。
まるで本のページから、そのまま抜け出てきたみたいに、ただ、そこにいた。
「アルス、無事か」彼女は籠を見て、それから海賊たちを、ぐるりと見回した。「余の連れを攫うとは、いい度胸ではないか」
海賊たちが、ざわめいた。
けれどアルヴィーダだけは、両手をぱっと広げて、笑った。
「来た来た来た! 待ってたんだよ、あんたみたいなの!」
彼女は近くの岩から、釣り竿を二本、取り上げた。
一本をウェルバに、ぽいと放る。
「海賊の流儀、知ってる? 勝負しよ。釣りで。日が沈むまでに、でっかい魚、釣ったほうが勝ち。あーしが勝ったら――あんたたちは、あーしの手下ね」籠を、顎でしゃくる。「あんたが勝ったら、あーしらはあんたの手下。そこの彼氏も手下ね。簡単っしょ?」
ウェルバは、放られた竿を片手で受けた。
しげしげと眺める。それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「釣り、か。余を、誰だと思っておる」彼女は、胸を張った。「ドラゴンを名乗る者ぞ……魚の一匹や二匹、造作もないわ」
やけに自信満々だ。
僕は、籠の中で、頭を抱えたくなった。
ひょっとするとこの人は、釣りをしたことがないのかもしれない。
二人が岩の上に、並んだ。
糸を垂れる。
日が傾きはじめていた。海が金色に光る。
――勝負は、たった一瞬でついた。
アルヴィーダの竿が、いきなり、ぐわんとしなった。
どうやら、とんでもない大物だ。
彼女は舌打ちした。心底うんざりした顔で。
「……あー。またかー」
糸をたぐる。たぐる。
海面が盛り上がる。
彼女が引き上げたのは、岩より大きな、銀色の魚だった。
ひげが長く、目が人のように悲しげだ。
女たちが、わあっと沸いた。
「この海のヌシ」と、アルヴィーダは、ため息をついた。「また釣れちゃった。開幕一投で。あーしに惚れすぎでしょ、マジ。……ねえヌシ。そんなにあーしのこと好きなわけ? あーし、一生この海から、出らんないじゃん」
その声が、笑っているのに、すこしだけ、寂しそうに聞こえた。
おそらく、この近海で最も巨大な魚を釣ってしまったのだ。
これではもう勝ち目がない。
ウェルバの竿には、何もかかっていなかった。
しばらくして、ようやくぴくりと引いて。
彼女が勢いよく引き上げたのは、手のひらほどの小さな魚だった。
地中海でよく見かけるボラダイ。
ぴちぴちと、跳ねている。
「……ふむ」
ウェルバは、それを、じっと見た。
「すまぬ、アルス。今から女の子になる心構えをしておいてくれ」
どうやらウェルバは、僕がポワゾネスの手下になった未来を想像していたらしい。
勝てないのが分かったら、急に潔くなるのずるい。
「お願いだ諦めないで、ウェルバ。僕が女の子海賊団に編成される未来なんて、きっと誰も望んでいないよ」
けれど、ここから逆転劇なんてあるんだろうか。
どう転んでも、ウェルバが勝てる勝負ではなかった。
日が沈めば、僕は連れて帰られる。
連れて帰られて、どうなるのか――。
そのときだった。
海が、静かになった。
女たちのざわめきも、波の音も、すうっと引いていく。
金色だった海面から、急に色が抜けた。
寒い。
潮の香りに、別のにおいが混じった。
冷えた鉄のにおいだ。
まるで鍛冶の煙を吸った雪が降って来たときみたいな――。
海が、軋んだ。
沖のほうから白いものが、みしり、みしりと、こちらへ広がってくる。
氷だった。
海が凍っていく。
波が立ったまま、凍りついて、白い棘になっていく。
アルヴィーダの顔から、にやけが、消えた。
あの、傲岸不遜な頭領が。
髪の隙間の目を、大きく見ひらいて、沖を見ていた。
「――上の連中が来たね」彼女の声が、震えていた。「逃げな。全員。今すぐ」
「ヌシは!?」と、ひとりが叫ぶ。
「捨ていけ! 命が惜しけりゃ!」
女たちが銛を放り出し、網を蹴散らし、いっせいに海へ飛びこんだ。
さっきあんなに静かに、音もなく船を囲んだ女たちが。
今はふり返りもせずに、凍りはじめた海へ潜っていく。
紀元ゼロ年から海賊をやっている部族。
逃げていく。何かから。
アルヴィーダだけが、最後に籠のそばで、立ち止まった。
一瞬だけ足を止めて、僕を見た。
「キミ、運いいわ」と、未練がましそうに言った。「また今度ね」
それから彼女も、白くなりはじめた海へ、身を躍らせた。
あとには僕と、ウェルバだけが残された。
砂浜が凍りついていく。
冷えた鉄のにおいが濃くなる。
沖の氷の、ずっと下のほうで。
何かとてつもなく大きなものが、ゆっくりと、身じろぎした気配がした。
ウェルバが、小さな魚を、ぽいと海に放した。
竿を、捨てる。
そして僕の籠の前に立って、沖を、見すえた。
「アルス、息を止めていろ」と、彼女は言った。
いつもの豪気な声では、なかった。
「まったく、お主は運がいいのか悪いのか分からんな」




