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 ホーソーン地区から遥か離れた山の上。


 夜明け前の空気はまだ冷たく、吐く息がわずかに白く滲んでいた。足元の草が夜露に濡れて、踏むたびにしっとりとした感触を返す。眼下には街並みが広がっていた。ホーソーン地区の一角が赤く燃えている。煙が何本も立ち昇って、夜明けの空に黒い筋を描いていた。


 その光景を見下ろす位置に——男が立っていた。


 セドリック・ウィダシンズ。


 緑色の炎がコートのように全身を覆っている。揺らめく炎は熱を持たないかのように静かで、夜明けの風に煽られてもその形を崩さなかった。炎の奥から覗く琥珀色の瞳が、遠くの街をじっと見据えている。


 その右手が——ゆっくりと、下ろされた。


 手の中にあったのは弓だった。緑色の光を帯びた弓弦が、放った直後の微かな振動をまだ残している。番えられていた矢はもうない。遥か遠くの——竜の喉を貫いた、あの一射。


 セドリックの腕が完全に下りた瞬間、弓が淡い光を放って——鎮火した。緑の光が砕けるように散って、夜明けの空気に溶けていく。後には何も残らなかった。


 眼下の街で、巨大な影が揺れていた。


 竜が——傾いでいく。


 あの巨体が、前足から崩れ落ちるようにしてゆっくりと倒れていく。セドリックはその光景を、琥珀色の瞳を細めて見つめた。緑の淡い光が瞳の奥でちらりと明滅して、やがて消える。


 一瞬——ほんの一瞬だけ、巨獣の体の傍を何かが落ちたような気がした。


 人影。小さな、小さな人影。巨体と一緒に、重力に引かれて落ちていく。


 けれど、遠すぎた。この距離では視認できない。見間違いかもしれなかった。


 巨獣が街に倒れ込んだ。


 遅れて地鳴りのような音が山の上まで届いた。粉塵が炎の光に照らされて、遠くの空に土色の雲を作る。それを、セドリックはしばらく黙って見つめていた。


 やがて——身に纏っていた緑色の炎が、すうっと引いていった。裾から、袖口から、肩先から。炎が体を離れて空気に溶けていく。最後に胸元の一点が小さく明滅して、それも消えた。


 振り返った。


 数歩後ろに、女性が立っていた。


「おう、終わったぜ」


 軽い声だった。夜通し街を焼いた竜を仕留めた直後の声とは思えないほど、力が抜けている。


 ニーナは彼の言葉に静かに頷くと、一歩踏み出した。眼鏡のレンズが夜明けの最初の光を反射して、一瞬だけ白く光る。


「お疲れ様でした。隊員全員にジャバウォックの遺体の回収と、地区の被害者の保護の連絡は済ませたわ」


「さっすが、副会長。仕事が早い」


 肩をすくめて笑うセドリックに、ニーナは小さく息をついた。こんな状況でも軽口を叩ける男だった。いつものことだが、慣れるものでもない。


 けれど、彼女は咎めなかった。


「それにしても、珍しいわね。いつもは自分から動かないのに……」


 彼を見つめながら、静かに言葉を続ける。


「ホーソーン地区に、知り合いか大切な人がいたの?」


 セドリックが目を瞬かせた。


 虚を突かれたように、一瞬だけ動きが止まる。琥珀色の瞳がニーナを見て——それからふっと逸れて、眼下の街に向いた。


 また軽く笑って、頭を掻いた。


「知り合いっちゃ知り合いだけど……大切な人かぁ」


 琥珀色の瞳が、遠くを見つめていた。


 ホーソーン地区の方を——いや、その視線はどこか遠い別の場所に向いている。ここにはいない誰かの姿を追っているような——そんな目だった。


 ニーナが首を傾げかけた、その時。


 セドリックは振り返ると、口元がわずかに動いた。


「……そうだな。俺の大切な人だよ」


 声の調子は変わらなかった。軽くて、飄々としていて、いつもの彼のままだった。


 けれど——笑みに、影があった。


 ほんの一瞬。口角は上がっているのに、目元がそれについていかない。琥珀色の瞳の奥に、名前のつかない感情が滲んで——すぐに消えた。


 ニーナの目がわずかに見開かれた。


 この男のこんな顔を見るのは、初めてだった。聞きたいことはあった。けれど——今は、聞くべきではないと思った。


 彼女は何も追及しなかった。ただ柔らかく微笑んで、頷いてみせた。


「……わかったわ。じゃあ後でその子を探させるから、特徴だけ教えてくれる?」


 セドリックが顔を上げた。


 さっきの影はもうなかった。琥珀色の瞳がいつもの光を取り戻して、肩をすくめる。また軽い調子が戻ってきていた。


「えっとね。薄桃色のおさげしてて、よく泣いて気絶する、ちょっと可愛い子」


「……気絶?」


 眼鏡のフレーム越しに、ニーナが訝しげに目を瞬かせた。


 セドリックは答えなかった。ただ、にやっと笑って歩き出す。


 二人は並んで山を下り始めた。夜明けの光が東の空から差し込んで、二つの影が長く伸びる。草を踏む足音が二つ分だけ響いて、やがてそれも遠ざかっていった。


 山の上には、誰もいなくなった。


 眼下では——夜明けの光が、煙の向こうに静かに広がっていた。


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