67
ホーソーン地区から遥か離れた山の上。
夜明け前の空気はまだ冷たく、吐く息がわずかに白く滲んでいた。足元の草が夜露に濡れて、踏むたびにしっとりとした感触を返す。眼下には街並みが広がっていた。ホーソーン地区の一角が赤く燃えている。煙が何本も立ち昇って、夜明けの空に黒い筋を描いていた。
その光景を見下ろす位置に——男が立っていた。
セドリック・ウィダシンズ。
緑色の炎がコートのように全身を覆っている。揺らめく炎は熱を持たないかのように静かで、夜明けの風に煽られてもその形を崩さなかった。炎の奥から覗く琥珀色の瞳が、遠くの街をじっと見据えている。
その右手が——ゆっくりと、下ろされた。
手の中にあったのは弓だった。緑色の光を帯びた弓弦が、放った直後の微かな振動をまだ残している。番えられていた矢はもうない。遥か遠くの——竜の喉を貫いた、あの一射。
セドリックの腕が完全に下りた瞬間、弓が淡い光を放って——鎮火した。緑の光が砕けるように散って、夜明けの空気に溶けていく。後には何も残らなかった。
眼下の街で、巨大な影が揺れていた。
竜が——傾いでいく。
あの巨体が、前足から崩れ落ちるようにしてゆっくりと倒れていく。セドリックはその光景を、琥珀色の瞳を細めて見つめた。緑の淡い光が瞳の奥でちらりと明滅して、やがて消える。
一瞬——ほんの一瞬だけ、巨獣の体の傍を何かが落ちたような気がした。
人影。小さな、小さな人影。巨体と一緒に、重力に引かれて落ちていく。
けれど、遠すぎた。この距離では視認できない。見間違いかもしれなかった。
巨獣が街に倒れ込んだ。
遅れて地鳴りのような音が山の上まで届いた。粉塵が炎の光に照らされて、遠くの空に土色の雲を作る。それを、セドリックはしばらく黙って見つめていた。
やがて——身に纏っていた緑色の炎が、すうっと引いていった。裾から、袖口から、肩先から。炎が体を離れて空気に溶けていく。最後に胸元の一点が小さく明滅して、それも消えた。
振り返った。
数歩後ろに、女性が立っていた。
「おう、終わったぜ」
軽い声だった。夜通し街を焼いた竜を仕留めた直後の声とは思えないほど、力が抜けている。
ニーナは彼の言葉に静かに頷くと、一歩踏み出した。眼鏡のレンズが夜明けの最初の光を反射して、一瞬だけ白く光る。
「お疲れ様でした。隊員全員にジャバウォックの遺体の回収と、地区の被害者の保護の連絡は済ませたわ」
「さっすが、副会長。仕事が早い」
肩をすくめて笑うセドリックに、ニーナは小さく息をついた。こんな状況でも軽口を叩ける男だった。いつものことだが、慣れるものでもない。
けれど、彼女は咎めなかった。
「それにしても、珍しいわね。いつもは自分から動かないのに……」
彼を見つめながら、静かに言葉を続ける。
「ホーソーン地区に、知り合いか大切な人がいたの?」
セドリックが目を瞬かせた。
虚を突かれたように、一瞬だけ動きが止まる。琥珀色の瞳がニーナを見て——それからふっと逸れて、眼下の街に向いた。
また軽く笑って、頭を掻いた。
「知り合いっちゃ知り合いだけど……大切な人かぁ」
琥珀色の瞳が、遠くを見つめていた。
ホーソーン地区の方を——いや、その視線はどこか遠い別の場所に向いている。ここにはいない誰かの姿を追っているような——そんな目だった。
ニーナが首を傾げかけた、その時。
セドリックは振り返ると、口元がわずかに動いた。
「……そうだな。俺の大切な人だよ」
声の調子は変わらなかった。軽くて、飄々としていて、いつもの彼のままだった。
けれど——笑みに、影があった。
ほんの一瞬。口角は上がっているのに、目元がそれについていかない。琥珀色の瞳の奥に、名前のつかない感情が滲んで——すぐに消えた。
ニーナの目がわずかに見開かれた。
この男のこんな顔を見るのは、初めてだった。聞きたいことはあった。けれど——今は、聞くべきではないと思った。
彼女は何も追及しなかった。ただ柔らかく微笑んで、頷いてみせた。
「……わかったわ。じゃあ後でその子を探させるから、特徴だけ教えてくれる?」
セドリックが顔を上げた。
さっきの影はもうなかった。琥珀色の瞳がいつもの光を取り戻して、肩をすくめる。また軽い調子が戻ってきていた。
「えっとね。薄桃色のおさげしてて、よく泣いて気絶する、ちょっと可愛い子」
「……気絶?」
眼鏡のフレーム越しに、ニーナが訝しげに目を瞬かせた。
セドリックは答えなかった。ただ、にやっと笑って歩き出す。
二人は並んで山を下り始めた。夜明けの光が東の空から差し込んで、二つの影が長く伸びる。草を踏む足音が二つ分だけ響いて、やがてそれも遠ざかっていった。
山の上には、誰もいなくなった。
眼下では——夜明けの光が、煙の向こうに静かに広がっていた。




