65-2
「オズワルドくん! ここは危ない、早く避難を——」
「はぁ……はぁ……うるさいっ——ゴフッ!」
駆け寄ってきた憲兵の言葉を遮って吠えた。吠えた拍子にまた咳き込んで、口の端から赤い飛沫が散った。膝が瓦の上で滑る。体が傾いで——崩れかけた大砲の砲身に、肩からもたれかかった。
冷たい鉄の感触が肩を支える。砲身の表面にはまだ淡い光の亀裂が走っていたが、完全には消えていなかった。形を留めている。辛うじて——まだ、ここにある。
視線が自分の太腿に落ちた。数分前、意識を保つために自ら刺したペンの軸が斜めに突き刺さったまま、血に濡れて鈍く光っている。
……まさか、こんな形で役に立つとはな。
乾いた笑いが喉の奥から漏れた。掠れていて、ほとんど吐息だった。
全く——彼女と関わってから碌なことがない。
(だが、それが面白い)
口の中の血を横に吐いた。赤い唾液が瓦の上に弾けて、炎の光に照らされる。
顔を上げた。
視界はまだ滲んでいたが、遠くにアメリアの巨体が見えた。その体表にしがみつく、小さな人影も。薄桃色が、炎の赤に照らされて揺れている。
小さな体が宙を舞ったかと思うと、次の瞬間にはアメリアの喉元に貼りついていた。
遠くでアメリアの咆哮が聞こえる。おそらく当たったのだろう。
大砲が、音もなく崩れた。
砲身の輪郭が揺らいで、淡い光の粒子に分解されていく。鉄灰色の表面がガラスのように罅割れて、内側から青い光が溢れ出して、散った。蛍のように。星屑のように。夜明け前の闇の中で、静かに消えていった。
もうあの大砲は生成できない。体が持たない。それはわかっていた。
だから、あれが最後の一発だった。
あとは、彼女を信じるだけだ。
マティアなら——やれる。
震える手で、耳元の無線機に触れた。指先の感覚がほとんどなくて、何度か空を掻いてから、ようやくスイッチに触れた。
息を吸った。肺の奥が軋んで、鉄の味がした。それでも——声を、絞り出した。
****
『——行け! マティア!』
無線機から飛び込んできた声は、掠れていた。
掠れて、途切れかけていて、いつもの涼しさなんてどこにもなかった。それでも——オズの声だった。間違いなく。
「——うんっ!」
涙声のまま、叫び返した。
迷いは、もうなかった。
短剣を口に咥えた。血の味と鉄の味が舌の上で混じり合う。両手が空く。左手で鱗を掴み、両足で体を引き上げて、姐さんの首をよじ登り始めた。
砲弾が左目に直撃したアメリア姐さんは、激痛に悶えていた。首を左右に振り、前足で顔を掻くように引っ搔いている。咆哮というよりも悲鳴に近い声が、断続的に上がっていた。
揺れる。激しく揺れる。しがみつくだけで精一杯だった。鱗の縁が掌に食い込んで、指の間から血が滴る。姐さんが首を振るたびに体が鞭打たれるように弾んで、何度も振り落とされかけた。
それでも——離さなかった。
揺れの合間を縫って、手を伸ばす。鱗を掴む。足をかける。少しずつ、少しずつ——喉の正面に向かって這い進む。
目が必死に動いていた。鱗の形が変わる場所。色が薄くなる場所。皮膜が透けて、内側の肉が僅かに見える場所——弱点は、そこにあるはずだ。
オズが言っていた。古来から、爬虫類の弱点は喉だと。
アメリア姐さんがまた首を大きく振った。体が弾かれて、左手が一瞬剥がれかけた。咄嗟に足の指で鱗の縁を挟んで踏ん張る。全身が軋む。もう腕の筋も、指の関節も、限界なんてとっくに超えている。
それでも——体は止まらなかった。
何度振り落とされかけても、掴み直した。何度揺さぶられても、歯を食いしばって耐えた。
そして——辿り着いた。
首の正面。喉。
鱗が途切れる場所があった。他の部位と違って、ここだけ鱗が薄く、小さく、間隔が広い。その隙間から覗く皮膜は、青黒い鱗とは違う——薄い灰色をしていた。脈打つように僅かに動いている。生きている証拠が、そこにあった。
——ここだ。
左手と両足で体を固定した。焼けた右腕を持ち上げる。痛みが走った。肘から先の感覚が曖昧で、指先が震えている。
口に咥えた短剣の柄を、右手で掴んだ。
血で滑る。握り直す。爪が柄に食い込むほど強く。
短剣を、振り上げた。
——激痛。
右腕の焼けた皮膚が引き攣れて、視界が白く弾けた。腕を上げるだけで、こんなにも痛い。この腕で、あの皮膜を貫けるのか。力が足りるのか。わからなかった。
わからなかったけれど——それよりも先に、姐さんの顔がよぎった。
笑っている姐さん。泣いている姐さん。怒っている姐さん。「大好き」と言ってくれた姐さん。
涙が、溢れた。
泣くな。
泣くな泣くな泣くな。
泣くのは——全部終わってからだ。
唇を引き結んだ。涙が顎を伝って、鱗の上に落ちた。
短剣を握る手に、最後の力を込めた。
「ぁああああああっ!」
振り下ろした。
全体重を乗せて。焼けた右腕の悲鳴を全て無視して。これまで生きてきた全部を、この一振りに詰め込んで。
刃が、皮膜に触れた。
一瞬の抵抗——そして、沈んだ。
短剣が、アメリア姐さんの喉を貫いた。
肉を裂く感触が、柄を通じて掌に伝わった。温かい血が刃を伝って手首を濡らし、腕を伝い、肘まで流れ落ちた。深く。深く。刃が根元まで沈んでいく。
その瞬間——手の中で、何かが砕けた。
金属が折れる、硬い音。
短剣の剣先が——肉の中で、折れた。
刃の半分が姐さんの喉の中に残ったまま、手元に戻ってきたのは柄と、途中から折れた刃の残骸だけだった。
それでも——届いた。
「ヴォ……アァァァッ……‼︎」
アメリア姐さんの咆哮が、空に響いた。
今までのどの咆哮とも違っていた。怒りでも、威嚇でもない。痛みの——純粋な、痛みだけの叫び。
巨体が大きく仰け反る。前足が宙を掻いて、尾が地上の瓦礫を薙ぎ払った。崩落の轟音が遠くで連なって、粉塵が炎の光に照らされながら舞い上がる。
私はしがみつくことしかできなかった。折れた短剣を握りしめたまま、姐さんの喉にしがみついて、揺れに耐えた。
咆哮が——長く、長く続いた。
その瞬間、東の空の端が——白んでいた。
夜が、明けようとしていた。
炎に染まっていた空の端に、微かな藍色が滲んでいる。星が一つ、また一つと消えていく。煙の向こうに、夜明けの最初の光が——細く、静かに差し込んでいた。
長い夜だった。




