65-1
鱗を蹴った足が、そのまま姐さんの体を駆け上がる。
正面から——鉤爪が来た。
巨大な爪が空気を裂いて振り下ろされる。風圧が頬を叩いた。だけど、遅い。最初に見た時の、あの恐ろしいほどの速度はもうなかった。
アメリア姐さんも、疲弊している。
それが一瞬で読み取れた。足に力を込めて、体を横に跳ばす。鉤爪が私のいた場所を薙いで、鱗の表面に深い傷を刻んだ。その振り下ろしの風に煽られて体が崩れる——鱗の上に転がった。
膝が鱗の縁にぶつかって、鈍い痛みが走る。右腕が着地の衝撃で疼いて、焼けた皮膚が引き攣れた。視界の端が白く明滅する。
けど、構わなかった。
転がった勢いのまま左手を鱗について体を起こす。膝を立てて、立ち上がる。よろめいたけれど、倒れなかった。
体勢を立て直した瞬間には、もう走り出していた。
喉。あの柔らかな皮膜に覆われた、たった一つの弱点。オズが見抜いて、砲弾で貫くはずだった場所。
(あそこまで距離がある……次の攻撃が来る前に、喉に飛び移らないと——!)
頭の中で距離を測る。肩から首の付け根までは、まだ何メートルもある。姐さんの鱗を蹴りながら駆け上がって、首を伝って喉の正面に回り込む——その間に、次のブレスが来たら終わりだ。
普通の人間なら、間に合わない。
——けど、私なら。
歯を食いしばって、鱗を蹴った。一歩。また一歩。焼けた右腕が振るたびに叫ぶように痛んだが、足は止まらなかった。
喉が、近い。
あと少し。あともう少しで——。
その時、姐さんの喉の奥が、また赤く脈動し始める姿が視界いっぱいに映った。
「———ぁ」
目を見開いた。
気づくのが、遅かった。
アメリア姐さんの首がゆっくりとこちらに向く。口が開いていた。牙の隙間から赤い光が溢れ出している。喉の奥で炎が渦を巻いて、膨れ上がって、今にも吐き出されようとしていた。
至近距離。
肌が焼けるように熱い。まつ毛の先が縮れる。姐さんの口の中の炎が、太陽みたいに眩しかった。
そして——私は今、鱗を蹴って宙に浮いている。
足場がない。避けられない。
(あ——死んだ)
不思議なほど冷静だった。頭が真っ白になるのと、状況を飲み込むのが同時だった。死に際というのは、こんなにも静かなものなのか。
先ほど決意した覚悟が、ここで途切れる。逃げないと決めたばかりなのに——逃げる間もなく、終わる。
なんて、情けない。
涙すら出なかった。ただ、口の中の炎を見つめていた。
——ドォンッ!
轟音が、世界を割った。
炎の音ではなかった。聞き覚えのある音。砲弾の音。
アメリア姐さんの顔が、横に弾けた。
左目——その巨大な金色の瞳に、何かが直撃していた。衝撃で首が大きく振れて、溜めていた炎が見当違いの方角に吐き出される。赤い光の奔流が夜空を斜めに切り裂いて、遥か遠くの闇に消えていった。
「ヴォガァァァァァッ‼︎」
痛みに狂ったような咆哮が轟く。巨体が激しく揺れて、空中にいた私の体がぐらりと傾いた。
「——えっ」
まさか——砲弾?
今?
誰が——。
混乱が頭を埋め尽くすより先に、重力が体を引いた。落ちる。姐さんの首元に向かって、体が自由落下していく。
咄嗟に——左手を伸ばした。
痛みに悶えて首を振るアメリア姐さんの、首の付け根。鱗と鱗の隙間に指を突き込んで——掴んだ。体がぶらんと揺れて、肩の関節が悲鳴を上げる。右腕を伸ばして、皮膜の薄い部分に指を食い込ませた。焼けた腕に激痛が走る。歯を食いしばって、それでも掴み直した。
しがみついた。首元に。喉のすぐ近くに。
痛みに暴れる姐さんの首が左右に振れるたびに、体が鞭のようにしなる。振り落とされそうになるのを、両手の指と足先だけで耐えた。鱗の縁が掌を切って、新しい血が指を伝った。
(砲弾——どこから……⁉︎)
思い当たるのは、一つしかなかった。
暴れる姐さんにしがみつきながら、必死に首を巡らせた。煙と炎の向こう、倒壊を免れた建物の屋根の上——。
くすんだ金色の髪が、風に靡いていた。
「——オズっ!」
声が裏返った。視界が滲んだ。我慢していた涙が、勝手に溢れそうになった。
遠い。豆粒ほどの大きさだ。だけど、見間違えるはずがなかった。
崩れかけた大砲の砲身にもたれかかるようにして——立っていた。いや、立っているというより、大砲に体を預けてかろうじて倒れていないだけだった。
それでも——あの深緑色の瞳が、まっすぐこちらを見据えていた。
炎の光を映して、静かに。




