64-2
考えるよりも先に、右腕が動いていた。
激痛が走った。焼けた皮膚が引き攣れて、神経の一本一本が悲鳴を上げる。視界が明滅する。それでも構わなかった。構っていられなかった。
右手で鱗を掴んだ。痛みに耐えるように下唇を噛む。歯が皮膚を裂いて、鉄の味が口の中に広がった。
両手で、鱗を掴んだ。
体を大きく揺らして、足先を鱗の縁に引っ掛ける。一度。二度。三度目で——足が鱗の上に乗った。
そこからは、考えることをやめた。
駆け上がった。
鱗の縁を蹴って、剥がれかけた隙間に指を突き込んで体を引き上げて、また蹴る。手から血が出ていた。鱗の鋭い縁で掌が切れているのだろう。痛みはもうわからなかった。右腕の激痛が全てを塗り潰していて、それ以外の傷はもう感覚の外にあった。
体力の限界は、とっくに過ぎている。手も足も震えている。肺が潰れそうだった。
それでも——何かが、私を動かしていた。
やっとの思いで、肩に辿り着いた。
見上げる。アメリア姐さんの口の中に、炎が溜まっていくのが見えた。喉の奥から迫り上がる赤い光が、開きかけた牙の隙間から漏れ出している。あと数秒。あと数秒で、あの炎がオズたちを焼き尽くす。
こちらには、まだ気づいていない。
間に合う——間に合わせる。
私が、止めないと。
——私が、姐さんにトドメを刺さないと。
その考えが頭を過った瞬間——体が、震えた。
さっきまでとは違う震えだった。痛みでも疲労でもない。もっと奥の、心の芯が揺れている。
脳裏に、姐さんの顔がよぎった。
笑っている顔。頬杖をついてこちらを見ている顔。「大好き」と言ってくれた時の、あの目元の柔らかさ。部屋でお兄ちゃんとお姉ちゃんの縫い方を教えてくれた夜の横顔。
それが、走馬灯のように流れて——涙が滲んだ。
告白するって、決めたのに。
彼女に気持ちを伝えるって、覚悟を決めたはずなのに。
——本当は、怖かった。
オズが「僕が喉を貫く」と言った時、心のどこかで安堵した自分がいた。私じゃない誰かが姐さんを止めてくれる。私は隙を作るだけでいい。最後の一撃は——私じゃなくていい。
そう思って、楽になった自分がいた。
なんて、臆病者なんだ。
涙が頬を伝った。焼けた右腕がずきりと疼いて、声すら出せない。炎を放とうとしている姐さんの気を逸らすための一声すら、喉から出てこない。
情けなかった。自分が。
諦めてしまおうか——と、一瞬だけ思った。
本当に、一瞬だけ。
その暗い考えが脳裏を掠めた瞬間——別の声が、記憶の底から浮かび上がった。
『——弱気になったら、告白は成り立たないぞ。シャキッとしろ』
オズの声だった。
あの瓦礫の影で、手帳を閉じてまっすぐこちらを見据えた時の、あの声。迷いの一切ない、深緑色の瞳。
彼は私を信じて、この大役を任せた。
あの砲弾を——自分の体を壊してまで作ったのは、私が隙を作ると信じていたからだ。そして私は隙を作った。彼の期待に応えた。なのに——ここで止まるのか。ここで、泣いて終わるのか。
拳を握った。
爪が掌に食い込む。焼けた右腕が叫ぶように痛んだ。——もう、気にならなかった。
声を張り上げて気を逸らそうとして——止めた。
代わりに、視線を肩に落とした。
あった。
アメリア姐さんの肩に深く食い込んだまま残っている、あの短剣。私がさっき押し込んだせいで、柄の半分近くが肉に埋まっている。
あれを——抜く。
あれを抜いて、武器にする。
迷いは、なかった。
膝をついたまま短剣の柄に両手をかけた。握る。焼けた右手が悲鳴を上げたが、歯を食いしばって無視した。引く。
——硬い。
びくともしなかった。先ほど全体重をかけて押し込んだせいで、刃が肉の奥深くまで食い込んでいる。握り直して、もう一度引く。腕の筋が千切れそうに張り詰めた。足を踏ん張って、体重を後ろにかける。
抜けない。
だけど——そんなの、関係ない。
「——ああああああっ!」
声を張り上げた。
全身の力を腕に集めて、短剣を引き抜きにかかった。両手で柄を掴み、背中を反らし、足裏で鱗を踏み締めて——精一杯引き抜こうと、全身に力を込めた。
アメリア姐さんが、ぴくりと動いた。
私の叫びに反応したのだ。溜めかけていた炎を中断するように——ゆっくりと、首がこちらに向く。
金色の瞳と、目が合った。
その瞬間——短剣が、抜けた。
ずるりと。肉を引き裂く湿った音と共に、刃が姐さんの肩から引き抜かれた。反動で体がよろめく。両手に握った短剣の刃が、血でぬらぬらと光っていた。
「グルルル……ガアアアアッ‼︎」
アメリア姐さんが身を捩った。短剣が抜かれた痛みに悶えて、溜めていた炎のブレスが見当違いの方角に放たれる。赤い光の奔流が夜空を薙いで、遥か遠くの暗闇に消えていった。
軌道が——逸れた。
巨体が大きく揺れる。私は短剣を握りしめたまましがみついて、きつく瞼を閉じた。揺れが全身を叩く。歯が鳴る。それでも、手は離さなかった。
揺れが収まっていく。
恐る恐る瞼を上げて——オズたちがいる屋根の方角を見た。
焼けていなかった。
建物は、まだ立っていた。屋根の上で動く小さな人影が見える。崩れていない。燃えていない。
——間に合った。
安堵が体を駆け抜けた。張り詰めていた全身の力が一瞬だけ緩んで、膝が折れそうになる。それを堪えて、ゆっくりと——立ち上がった。
肩の上に、立った。
風が吹いた。焦げた髪が揺れる。煙の匂いと血の匂いが混じった風が、全身を撫でていく。
正面から——アメリア姐さんの顔が、ゆっくりとこちらを向いた。
炎を吐き切った直後の口元から、白い蒸気が漏れている。金色の瞳が、ぎょろりと私を捉えた。怒りか、苛立ちか——その奥に何があるのか、もう読めなかった。
私は、血に濡れた短剣を構えた。
体は——もう、震えていなかった。
なぜかはわからない。恐怖が消えたわけじゃない。足がすくまないわけでもない。ただ——もう、逃げないと決めたから。それだけで、体は止まってくれた。
「……姐さん」
呼んだ。
返ってきたのは、荒い鼻息だけだった。怒りに燃えた金色の瞳が、じっとこちらを見据えている。私の声に、反応はない。言葉が、届いていない。
——それでも。
彼女を、愛おしいと思った。
あの笑顔も。あの怒った顔も。泣いた顔も。私を娘と呼んでくれたことも。全部——全部、愛おしかった。
「今、行くからね」
静かに、言った。
短剣を握り直す。焼けた右腕が軋む。構わなかった。
次の瞬間——私の足は、鱗を蹴っていた。




