64-1
炎が来た。
頭が考えるより先に、体が動いていた。
死を覚悟した。覚悟したはずだった。なのに——膝が鱗を蹴っていた。背中から倒れるように体を投げ出して、姐さんの口元から放たれた炎の奔流の下を滑り抜ける。
生存本能。それ以外に説明のしようがなかった。死にたくないと叫ぶ体が、意志とは無関係に動いた。
炎が頭上を通過する。熱が髪を舐めて、頬の皮膚を焦がす。視界が赤一色に染まって——。
「——っ、あぁ……‼︎」
右腕に、激痛が走った。
掠めた。炎の端が、二の腕を掠めただけだった。
たった、それだけ。
なのに——パーカーの袖が一瞬で焼け落ちて、その下の皮膚がじゅうと音を立てた。焼けた肉の匂いが鼻を突く。自分の腕の匂いだと理解した瞬間、胃の底からこみ上げるものがあった。
痛い。痛い痛い痛い——。
鱗の上で悶えた。体が勝手に丸まって、焼けた腕を庇おうとする。視界が涙でぐしゃぐしゃになる。声にならない悲鳴が喉を引き裂いて、歯を食いしばっても漏れた。
そのまま——体が、滑った。
「っ!」
足場が消えた。鱗を掴んでいた左手が剥がれて、体が宙に放り出される。
落ちる。
内臓が浮き上がる感覚に肝が凍った。風が体を叩く。下を見る余裕はなかった。見なくてもわかる——このまま地面に落ちたら、終わりだ。
咄嗟に、宙の中で体をひねった。左手を伸ばす。指先が鱗の縁に触れて、滑って、爪が割れる感触がして——掴んだ。
肩が引き千切れそうな衝撃が走った。体がぶらんと振り子のように揺れて、重力が左腕一本にのしかかる。指の関節が悲鳴を上げている。
落ちなかった。
かろうじて——しがみついた。
「はぁ……はぁ……っ」
荒い呼吸が止まらなかった。左手一本でぶら下がったまま、足が虚空を蹴る。風が吹くたびに体が揺れて、指先の力が削られていく。
死ぬ。
絶対死ぬやつだ、これ。
心の中で泣き言が漏れた。なんとか右手を動かして鱗を両手で掴もうとしたが——焼けた腕を持ち上げた瞬間、視界が白く弾けた。
「——ぁっ」
激痛。掠めただけの傷が、腕を動かすだけでこれほどの痛みを返してくる。指先まで痺れて、力が入らない。右手は使えなかった。
気が遠くなる。意識の端が薄くなっていって、指の力がゆっくりとほどけていく。
だめだ——気を失ったら、落ちる。落ちたら死ぬ。
歯を食いしばった。奥歯が軋む音が頭蓋に響くほど強く。左手の指に、残りの全てを込めた。
(どこまで……落ちたんだろう)
痛みの波が少しだけ引いた瞬間に、顔を上げた。
肩から少し離れた——背中のあたりだろうか。さっきまでいた場所よりも、だいぶ下に落ちている。鱗の隙間にぶら下がったまま、恐る恐る視線を上に向けた。
アメリア姐さんの横顔が見えた。こちらには振り返っていない。金色の瞳は前方を——どこか遠くを見据えていた。
私に、気づいていない。
肩の痛みに悶えた拍子に落ちた私を、取るに足らない虫けらのように振り落としたまま、もう忘れている。
……それが、今はありがたかった。
ほんの一瞬だけ、息を吐いた。体の力が僅かに抜ける。
(よかった……隙をついて、逃げ——)
安堵は、一秒も持たなかった。
アメリア姐さんの喉が——また、光り始めていた。
鱗の隙間から滲む、あの赤い脈動。溶岩のような光が内側から膨れ上がっていく。
呼吸が、止まった。
どこに——どこに向かって——。
慌てて、姐さんの視線の先を追った。金色の瞳が見据えている方角。煙と炎の向こう、倒壊を免れた建物の——。
屋根の上。
オズたちが、いる場所だった。
血の気が引いた。体の奥の温度が一瞬で消えて、指先が痺れた。
(——だめ……っ!)




