表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

93/113

63-2

「オズ! ……オズ!」


 何度名前を呼んでも、返ってくるのは苦しげな吐息ばかりだった。ノイズの合間に、水気を含んだ咳が聞こえる。その一つ一つが、胸の奥に釘を打ち込むみたいに痛かった。


 なんで——なんで吐血なんか。何が起きたの。彼は大丈夫なの。


 考えが纏まらない。頭の中をぐるぐると疑問が回って、一つも答えに辿り着かない。


 けれど——一つだけ、恐ろしいほど明確にわかることがあった。


 オズが動けない。


 つまり——作戦は、破綻する。


 その事実が、抵抗もなく胸の中に落ちてきた。すとん、と。あまりにも静かに。体中の血の気が引いていくのがわかった。指先から温度が消えて、短剣の柄を握る力が抜けそうになる。


 どうすれば。このままじゃ——。


 不意に、髪が揺れた。


 風——ではなかった。


 生温かくて、湿っていて、わずかに硫黄の匂いが混じった気流。上から。すぐ上から。


 心臓が止まった。


「……ぁ……っ」


 掠れた声が、唇の隙間から漏れた。


 時間が止まったような錯覚。体が動かない。わかっている。わかっているのに——振り返らなければならないのに、首が動かない。


 だって、それは風なんかじゃない。


 知っていた。ホーソーン地区を焼いたあの熱を、私はもう知っていた。


 ゆっくりと——首を動かした。


 金色の瞳が、そこにあった。


「ヴルル……ッ」


 低い唸り声が、空気を通り越して骨に直接響いた。


 全身の温度が消えた。


 巨大な顔が、すぐそこにあった。青黒い鱗が覆う顔面。鼻先から吐き出される高温の吐息が顔にかかるほどの距離。瞳孔が鋭く裂けた金色の目が、ぎょろりと私を捉えていた。


 あの目を知っている。アメリア姐さんの目だ。


 けれど、そこに私を認識する色はなかった。ただ——自分の体に貼りついた異物を確かめるように、冷たく見下ろしている。


(に……逃げないとっ)


 頭ではわかっている。体を動かせ。飛べ。蹴れ。今すぐこの場所から離れろ。


 ——足が、動かなかった。


 すくんでいた。膝から下の感覚がなくて、鱗を蹴ることすらできない。


 さっきまで走れていたのに。さっきまで、オズの声が耳元にあったから——彼が見ていてくれると思えたから、飛べたのに。


 その声が、もうない。


 私は——ただの娼館の下働きの少女だった。


 竜に立ち向かえるような人間じゃない。オズがいなければ短剣一本振れない、怯えて泣くだけの——。


「ヴォアァァァッ‼︎」


 至近距離で、姐さんが吠えた。


 体がびくりと跳ねた。鼓膜が弾けそうな圧力。唾液の飛沫が頬にかかる。熱い吐息が全身を包んで、髪が巻き上がった。


 目尻に涙が滲んだ。


 それでも——手が動いた。ほとんど無意識だった。


 短剣を構えようとした。せめて刃だけでも向けなければと、震える右手を持ち上げて——。


 手の中が、光っていた。


 淡い、青い光。


 短剣の刃が——透けていた。


「———ぇ」


 声にならない声が漏れた。


 握っているはずの柄の輪郭が揺らいでいた。淡い青の光を帯びて、向こう側が透けて見える。まるで——溶けていくように。


 オズが作った短剣。オズの力で生成された刃。


 彼が倒れたから——消えかけている。


 見つめていることしかできなかった。短剣は手の中で静かに光の粒子へと解けていった。指の隙間からこぼれる淡い光が、炎に照らされた夜の中で、小さな蛍のように散った。


 そして——何もなくなった。


 右手に残ったのは、空気だけだった。


 最後の武器が、消えた。


 地獄に落とされるというのは、こういうことを言うのだろうか。


 頭が真っ白になった。思考が全部剥がされて、ただ一つの疑問だけが残った。


 なんで。どうして。


 その疑問にすら答える余裕がなかった。アメリア姐さんの口元から——熱が、溢れ始めていた。


 喉の奥が赤く輝いている。鱗の隙間から溶岩のような光が脈動して滲み出す。見覚えのある光だった。何度も見た。何度も避けた。だけど——今、手にはなにもない。足は動かない。逃げ場もない。


 咄嗟に顔を上げた。


 姐さんの口が、開いていく。奥から迫り上がってくる炎の光が、暗闇の中で太陽のように眩しかった。熱が顔を焦がす。肌がひりつく。まつげの先が縮れるのがわかった。


 至近距離だった。外しようがない距離。


 あ——と、思った。


 思っただけだった。声にはならなかった。


 アメリア姐さんが、炎を吐いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ