63-2
「オズ! ……オズ!」
何度名前を呼んでも、返ってくるのは苦しげな吐息ばかりだった。ノイズの合間に、水気を含んだ咳が聞こえる。その一つ一つが、胸の奥に釘を打ち込むみたいに痛かった。
なんで——なんで吐血なんか。何が起きたの。彼は大丈夫なの。
考えが纏まらない。頭の中をぐるぐると疑問が回って、一つも答えに辿り着かない。
けれど——一つだけ、恐ろしいほど明確にわかることがあった。
オズが動けない。
つまり——作戦は、破綻する。
その事実が、抵抗もなく胸の中に落ちてきた。すとん、と。あまりにも静かに。体中の血の気が引いていくのがわかった。指先から温度が消えて、短剣の柄を握る力が抜けそうになる。
どうすれば。このままじゃ——。
不意に、髪が揺れた。
風——ではなかった。
生温かくて、湿っていて、わずかに硫黄の匂いが混じった気流。上から。すぐ上から。
心臓が止まった。
「……ぁ……っ」
掠れた声が、唇の隙間から漏れた。
時間が止まったような錯覚。体が動かない。わかっている。わかっているのに——振り返らなければならないのに、首が動かない。
だって、それは風なんかじゃない。
知っていた。ホーソーン地区を焼いたあの熱を、私はもう知っていた。
ゆっくりと——首を動かした。
金色の瞳が、そこにあった。
「ヴルル……ッ」
低い唸り声が、空気を通り越して骨に直接響いた。
全身の温度が消えた。
巨大な顔が、すぐそこにあった。青黒い鱗が覆う顔面。鼻先から吐き出される高温の吐息が顔にかかるほどの距離。瞳孔が鋭く裂けた金色の目が、ぎょろりと私を捉えていた。
あの目を知っている。アメリア姐さんの目だ。
けれど、そこに私を認識する色はなかった。ただ——自分の体に貼りついた異物を確かめるように、冷たく見下ろしている。
(に……逃げないとっ)
頭ではわかっている。体を動かせ。飛べ。蹴れ。今すぐこの場所から離れろ。
——足が、動かなかった。
すくんでいた。膝から下の感覚がなくて、鱗を蹴ることすらできない。
さっきまで走れていたのに。さっきまで、オズの声が耳元にあったから——彼が見ていてくれると思えたから、飛べたのに。
その声が、もうない。
私は——ただの娼館の下働きの少女だった。
竜に立ち向かえるような人間じゃない。オズがいなければ短剣一本振れない、怯えて泣くだけの——。
「ヴォアァァァッ‼︎」
至近距離で、姐さんが吠えた。
体がびくりと跳ねた。鼓膜が弾けそうな圧力。唾液の飛沫が頬にかかる。熱い吐息が全身を包んで、髪が巻き上がった。
目尻に涙が滲んだ。
それでも——手が動いた。ほとんど無意識だった。
短剣を構えようとした。せめて刃だけでも向けなければと、震える右手を持ち上げて——。
手の中が、光っていた。
淡い、青い光。
短剣の刃が——透けていた。
「———ぇ」
声にならない声が漏れた。
握っているはずの柄の輪郭が揺らいでいた。淡い青の光を帯びて、向こう側が透けて見える。まるで——溶けていくように。
オズが作った短剣。オズの力で生成された刃。
彼が倒れたから——消えかけている。
見つめていることしかできなかった。短剣は手の中で静かに光の粒子へと解けていった。指の隙間からこぼれる淡い光が、炎に照らされた夜の中で、小さな蛍のように散った。
そして——何もなくなった。
右手に残ったのは、空気だけだった。
最後の武器が、消えた。
地獄に落とされるというのは、こういうことを言うのだろうか。
頭が真っ白になった。思考が全部剥がされて、ただ一つの疑問だけが残った。
なんで。どうして。
その疑問にすら答える余裕がなかった。アメリア姐さんの口元から——熱が、溢れ始めていた。
喉の奥が赤く輝いている。鱗の隙間から溶岩のような光が脈動して滲み出す。見覚えのある光だった。何度も見た。何度も避けた。だけど——今、手にはなにもない。足は動かない。逃げ場もない。
咄嗟に顔を上げた。
姐さんの口が、開いていく。奥から迫り上がってくる炎の光が、暗闇の中で太陽のように眩しかった。熱が顔を焦がす。肌がひりつく。まつげの先が縮れるのがわかった。
至近距離だった。外しようがない距離。
あ——と、思った。
思っただけだった。声にはならなかった。
アメリア姐さんが、炎を吐いた。




