63-1
アメリア姐さんの肩に辿り着いた。
突き刺さったままの短剣の柄を両手で掴む。滑る。血と汗で指が滑って、うまく力が入らない。歯を食いしばって握り直す。爪が掌に食い込んで、じわりと新しい痛みが走った。
構わなかった。
「——ああああああっ!」
叫んで、全体重をかけて押し込んだ。
短剣が肉の奥に沈んでいく。鈍い抵抗があって、それを突き破るような手応えが掌を貫いた。温かい液体が刃を伝い、手首まで濡らした。
「グオオオオオォォォォッ‼︎」
アメリア姐さんの咆哮が世界を揺らした。
至近距離だった。口元に近い肩にしがみついているせいで、音というより衝撃だった。鼓膜がキーンと悲鳴を上げて、一瞬だけ世界が無音になる。遅れて、耳の奥にじんじんとした痺れが広がった。
巨体が激しく揺さぶられる。右に。左に。まるで荒波に飲まれた小舟みたいに体が振り回されて、何度も振り落とされそうになった。短剣の柄と、剥がれかけた鱗の縁に必死にしがみつく。指が千切れそうだった。
——これで終わる。
天に向かって咆哮を上げるアメリア姐さんの首が大きく反り返っていた。喉が、完全に露わになっている。あの柔らかな皮膜。オズが狙い定めた、たった一つの弱点。
彼の砲弾が、今まさにあそこを貫くはずだ。
私は倒れる衝撃に備えて短剣の柄を握り締め、鱗にしがみつく腕に残りの力を全て込めた。きつく瞼を閉じる。
来る。
来るはずだ。
———。
——————……?
「……ぇ?」
衝撃が、来なかった。
轟音も。振動も。崩れ落ちる巨体の重さも。何も。
代わりに感じたのは、アメリア姐さんの咆哮がゆっくりと収まっていく振動だけだった。激しく反り返っていた首が——少しずつ、降りてくる。
恐る恐る、瞼を上げた。
金色の瞳が、遥か頭上にあった。さっきまで天を仰いでいたはずのその目が、今はゆっくりとこちらの方向に戻ろうとしている。
痛みに慣れ始めている。
さっきまで身悶えていた姐さんの動きが、呼吸が——落ち着いてきている。
血の気が引いた。
(なんで——オズ⁉︎)
彼の計画なら、この瞬間に喉を貫いているはずだ。あの巨大な砲弾が、今まさに放たれていなければおかしい。なのに——何も来ない。
震える指で耳元の無線機に触れた。
「お、オズ! 何してるの、早くしないと——」
言いかけて、止まった。
無線機の向こうから聞こえてきたのは、彼の声ではなかった。
複数の憲兵が、彼の名前を叫んでいる。
切迫した声。悲鳴に近い呼びかけ。その合間を縫うようにして——。
『ゴフッ、ゴホッ……!』
何かを吐き出す音が、鼓膜に飛び込んできた。
心臓が凍った。
文字通り——胸の奥の温度が、一瞬で消えた。
弾かれたように、彼がいる方角を振り返った。目を凝らす。煙と炎の向こう、倒壊を免れた建物の屋根の上。さっきまで涼しい顔で大砲を構えていたはずの、あの場所。
オズが——膝をついていた。
片手で屋根の瓦を掴み、もう片方の手で口元を押さえている。その指の隙間から、赤い液体がぼたぼたと瓦の上に落ちていた。
吐血していた。
「——オズ‼︎」
喉が張り裂けるような声が出た。自分の声だと認識するのに一瞬かかった。無線機を通しているのか、直接叫んでいるのか、もうわからなかった。
****
「ガハッ……ゴホッ……!」
視界が傾いた、と思った瞬間には膝が瓦を叩いていた。衝撃で割れた瓦の欠片が散って、その上に赤い飛沫が落ちる。
血だった。
自分の口から溢れた、自分の血。
片手で体を支え、もう片方の手で口を覆う。指の隙間から止めどなく赤い液体が溢れて、瓦の上に小さな水溜まりを作っていく。
どうしてこうなった——いや、わかっている。考えるまでもない。
能力の酷使。限界は、とうに超えていた。
国家兵器級の大砲を虚空から生成するということは、それだけの物質を構築するということだ。情報を読み取り、構造を再現し、物理法則に沿って部品を一つ残らず正確に配置する。その全てが、能力を媒介にして行われる。
代償は——内側から来る。
揺らぐ視界の中で、蝶が見えた。淡い青色の翅を持つ、あの蝶。僕の視界の隅をゆらゆらと横切って、何事もないかのように宙を舞っている。
こんな僕を差し置いて、ただ優雅に。
『ほら、言わんこっちゃない』
そう言っているみたいで、腹の底からムカムカした。
(くそ——なんで、今なんだ……っ)
口を押さえる手に力が入った。悔しさなのか、吐き気なのか、もう区別がつかない。指が頬に食い込んで、爪の跡が白く残る。
「オズワルドくんっ!」
「おい、しっかりしろ!」
憲兵たちが駆け寄ってくる声が聞こえた。足音が瓦を蹴る振動が、膝を通じて鈍く伝わる。誰かが肩に手を置いた。その手が温かいことだけが、やけに鮮明だった。
視界の隅で——大砲が、揺らいでいた。
鈍い鉄灰色の砲身の輪郭がぶれて、表面に淡い光の亀裂が走っている。構成を維持する力が——僕の意識と一緒に、崩れかけている。
——まずい。
消える。あの大砲が消えたら、喉を貫く手段がなくなる。
肩に置かれた手を振り払った。憲兵が何か叫んでいたが、聞こえなかった。膝で瓦を擦りながら、崩れかけた大砲に向かって這った。
腕が震える。血で濡れた手が瓦の上を滑る。たった数歩の距離が、果てしなく遠かった。
「どいて……くれ……っ」
掠れた声を絞り出す。止めようとする憲兵の手を押しのけて——押しのけたつもりだったが、力が入らなくて指先が空を切っただけだった。
それでも這った。肘で瓦を掻いて、膝を引きずって、砲身に向かって一歩。また一歩。
(マティア——)
彼女の名前を呼ぼうとした。声に出そうとした。
出なかった。
口を開いた瞬間に込み上げてきたのは、声ではなく血だった。鉄の味が舌を覆い尽くして、鼻の奥からも温かい液体が垂れ落ちる。
無線機の向こうから——彼女の声が聞こえていた。
名前を呼んでいる。僕の名前を。何度も、何度も。
その声が、やけに遠かった。
手を伸ばした。砲身まであと少し。指先が鉄の冷たさに触れかけて——。
届かなかった。
視界が暗転する。瓦の冷たさが頬に触れた。それが最後の感覚だった。
僕は——彼女の名前を心の中で叫びながら、意識を手放そうとした。




