62-2
「——はやっ」
誰かが、ぽつりとそう呟いた。
隣に立っていた憲兵だったかもしれない。自分だったかもしれない。それくらい——目の前の光景は、常識の外にあった。
アメリアの巨体を、マティアが駆け上がっていく。
砲弾で剥がれた鱗の合間を縫うように跳躍し、鉤爪の追撃を紙一重でかわしながら、短剣を振るって肉を裂き、その勢いのまま上へ上へと登っていく。
とても人間の動きではなかった。
壁を蹴るような足運び。着地と同時に次の跳躍へ移る、一切の無駄がない体重移動。筋力だけでは説明がつかない。あの細い体のどこに、あれだけの脚力が眠っていたのか。
遠くから見ているからこそわかる。あれは——速さではない。生き延びるために研ぎ澄まされた、本能だ。
「……リッパーだ」
憲兵の一人が呟いた。呆然とした声だった。畏怖と、それから——どこか頼もしさの混じった声。
「……ははっ」
乾いた笑いが漏れた。
薄桃色のおさげ髪を振り乱して、躊躇なく刃を突き立て続けるあの姿。街を震え上がらせた『切り裂き魔』の名が——今はこんなにも心強い。
笑いを引っ込めて、表情を引き締めた。
「何をしている! 次の砲弾の準備をしろ!」
声を張り上げると、マティアに見入っていた憲兵たちが弾かれたように動き出した。砲弾を運び、装填し、照準を合わせ直す。普段ならヘンリーが担うはずの指揮だった。
ちらりと、後方に目を向けた。
倒壊を免れた建物の屋根の上——今僕たちが陣取っているこの場所の隅で、ヘンリーが横たわっていた。数人の憲兵が懸命に止血と応急処置を施している。右目には血に滲んだ布が巻かれ、折れた左腕は添え木で固定されていた。
意識がない。先ほど立っていたこと自体が異常だったのだろう。体が限界を認めて、強制的に落ちたのだと思う。
あの状態で——それでもまだ、マティアを案じる言葉を吐いていた。
視線を、戻した。
『——オズ!』
無線機から、マティアの声が飛び込んできた。
弾かれるようにアメリアの方角を見る。
肩だ。マティアが、アメリアの肩に辿り着いていた。突き刺さった短剣のすぐ傍にしがみついている小さな体が見える。
アメリアが彼女を振り落とそうとして鉤爪を振り上げた。だが——遅い。明らかに、序盤とは動きの質が違う。傷の蓄積が、あの巨体を確実に鈍らせている。
『あああああああ!』
マティアの叫びが無線機を割るように響いた。
突き刺さった短剣の柄を両手で掴んで——さらに深く、押し込んでいる。
「グオオオオオォォォォッ‼︎」
アメリアが天に向かって咆哮を上げた。振り上げた鉤爪が空を切る。痛みに身悶えて、首が大きく反り返った。
——喉が、露わになった。
弱点。普段は顎を引いて無意識に庇っていたその箇所が、今、完全に開いている。
僕は右手を掲げた。
掌の先で空気が歪む。視界の隅を、淡い青色の蝶が横切った。
次の瞬間——屋根が、軋んだ。
重い。先ほどまでの大砲とは、比較にならない質量。僕の目の前に、鈍い鉄灰色の巨大な砲身が鎮座していた。車輪が屋根の瓦を踏み砕き、照準器が月明かりを鈍く反射している。
「そ——それは……!」
傍にいた憲兵の一人が、声を失いかけながら後退った。その顔には見覚えのある畏怖が浮かんでいた。国の戦力として厳重に管理されているはずの兵器。それが今、何もない空間から現れた。
動揺が広がる。だが、構っている暇はない。
砲身に嵌め込まれた蒼いジェムに、手を触れた。指先から力が流れ込む。ジェムの内側で光が渦を巻き、砲口の奥が淡く——そして烈しく輝き始めた。
「全員、耳を塞げ」
静かに言った。声は大きくなかったはずなのに、屋根の上にいた全員がその言葉に従った。
照準の先に、アメリアの喉がある。
反り返った首。脈打つ鱗の隙間から覗く、薄い皮膜に覆われた柔らかな部位。あそこに——一発、叩き込む。
砲口の光が臨界に達した。空気が震える。屋根の瓦がびりびりと鳴っている。
マティアを見た。
アメリアの肩にしがみついたまま、こちらを見ていた。遠い。豆粒ほどの大きさだ。それでも——目が合った気がした。
右手に、力を込めた。
「——任せろ」
その呟きが、引き金になった。
……そのはずだった。




