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61-1

「退却! 退却っ!」


 怒号が煙の中で反響する。石畳を蹴る無数の足音が遠ざかっていく中、俺はその場に立ち尽くしていた。


 退くのは正しい判断だ。ジャバウォックを相手に生身で向かう奴なんて、命がいらないのと同義だ。部下たちが背を向けて走っていく。それを止める声は——もう出なかった。


 右目がやられている。アメリアの尾の一振りが掠めただけだった。それだけで視界の半分が暗くなった。左腕はもう折れている。肘から先の感覚がなくて、だらりと垂れ下がった自分の腕が、他人のもののようだった。


 炎の煙を吸いすぎた喉が灼けて、呼吸をするたびに錆びた鉄の味がする。


「オォォォォン……!」


 天に向かって、彼女が咆哮を上げた。


 その震動が地面を伝って足裏から脳まで突き抜ける。崩れかけた建物の外壁がぼろぼろと崩落して、粉塵が炎に照らされながら宙を舞った。


 三十メートルはあるだろうか。青黒い鱗に覆われた巨躯が、燃え盛る街を背景にして聳え立っている。鱗の一枚一枚が周囲の炎を反射して、おぞましいほどに煌めいていた。


 その咆哮の意味を——俺はもう汲み取れない。


 かつて柔らかく笑っていた彼女の声を、あの咆哮の中にどれだけ探しても見つからない。


 天を仰いでいた首がゆっくりと降りてくる。瞳孔の鋭い金色の瞳が、ギョロリとこちらを見下ろした。


 あの瞳を、知っている。けれど、そこに俺を認識する色はもうなかった。


「……ははっ」


 乾いた笑いが喉から漏れた。声というには掠れすぎていて、ほとんど吐息だった。


 詰んだ——と言えばわかりやすいだろうか。


 彼女の喉が、内側から赤く輝き始める。透き通るような鱗の隙間から、溶岩のような光が脈打つように滲んで見えた。ホーソーン地区の一角を焼け野原に変えた、あのブレス。あれが、今度は俺に向かって放たれる。


 冷静だった。不思議なほどに。恐怖よりも先に、諦念が体を満たしていた。


「副隊長‼︎」


 遠くから声が聞こえた。振り返らなくてもわかる——女性隊員の声だ。煙の向こうで、こちらに駆け寄ろうとする気配がある。


 「巻き添えを喰らうぞ!」と他の憲兵が叫んで、彼女を必死に引き留めているのが音でわかった


 こんな時でも——こんな上官のために、心配してくれる部下がいる。


 それだけで、充分だった。


 静かに瞼を閉じる。


 暗闇の中に、色が灯った。


 幼い頃、母が焼いてくれたパンの匂い。父に剣の構えを教わった庭の木漏れ日。妹が泣きながら追いかけてきた帰り道。


 そして——。


 振り返った彼女の横顔。風に揺れた髪。目が合って、少し照れたように笑ったあの笑顔。


 あの瞬間だった。俺が初めて、誰かを心から愛したいと思ったのは。


(……今行くよ。アメリア)


 共に行こう。先に、あっちで待っている。


 瞼の裏が赤く染まった。ブレスの熱が肌を焦がす距離まで迫っているのがわかる。轟音が鼓膜を圧して、世界が振動する。


 俺は、その瞬間を静かに待った。


 ——ドォンッ。


 轟音が炸裂した。だが、それは炎の音ではなかった。


 咄嗟に瞼を開けると、彼女の頭部に何かが命中していた。衝撃で巨大な首が横に振れて、溜められていたブレスが見当違いの方向に放たれる。白い光の奔流が遥か遠くの建物群を薙ぎ倒して、轟音と粉塵が夜空に吹き上がった。


(砲弾……?)


 目を疑った。だがこの音、この衝撃——間違いない。


 特殊部隊がもう到着したのか。そう思って砲弾が放たれた方向に、残った左目を向ける。


 炎の煙が風に揺れる。その隙間に——人影が見えた。


 一つだけ。たった一人。


 まだ倒壊を免れた建物の壁を蹴って、宙を舞っている。その脚力が尋常ではなかった。壁から壁へ、まるで重力を無視したかのように跳躍を繰り返しながら、巨大な竜に向かってまっすぐ飛んでいく。


 特殊部隊が単独で——?


 目を凝らした。煙が風に千切れて、その人影の輪郭が炎に照らされる。


 薄桃色のおさげ髪が、宙で大きく揺れていた。血に濡れたパーカーのフードが風を孕んではためいている。小さな体。華奢な腕。それでも、その目だけは一切の迷いなくアメリアを見据えていた。


「——マティアちゃんっ」


 声が出た。掠れて、裂けて、ほとんど音にならなかったけれど——喉が張り裂けるように痛んだけれど、俺は彼女の名前を呼ばずにはいられなかった。


 なんで。なんで君がここにいる。


 その問いが胸を埋め尽くすより先に、マティアの体がアメリアの巨躯に取りついた。


 しがみつくように——否、爪を立てるように、崩れた鱗の隙間に手を突き込んで体を固定している。あの高さ、あの速度で飛んで、着地と同時に掴まっている。


 無茶苦茶だ。


 だが、あの子は——俺が何も言えないまま立ち尽くしている間に、もう戦っていた。

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