60-2
顔が青ざめる。この人は私をなんだと思っているのか。今まさに街が燃えている中で、あの巨大な竜の攻撃を避けながら走れと——。
「む、無理だよ……私そんなに早くなんて……っ」
「何を言っている」
オズが呆れたように息をついた。それから、おもむろに前髪をかき上げた。うっすらと残る瘡蓋の跡が炎の光に晒される。
「あの夜、お前は多くの憲兵たちをその脚力で翻弄した。それに——僕の額に蹴りを入れた衝撃は、伊達じゃない」
「あば……あばばばっ」
頭が真っ白になった。泡を吹きそうになりながらも、意識だけはなんとか繋ぎとめる。
あの夜——リッパーに扮して、衣服だけを切りつけて走り回っていた夜。オズに足を掴まれて、額に傷をつけてしまったあの瞬間が鮮明に蘇って、罪悪感が全身を覆った。
「う……ご、ごめん……」
「謝るな。脳が震えただけだ」
「それ逆にやばいんじゃっ⁉︎」
肩をすくめて軽く返すオズと対照的に、私の顔はみるみると青くなっていく。それでも彼はこちらに向き直ると、今度は声のトーンを一段落ち着けた。
「とにかく、大丈夫だ」
深緑色の瞳が、まっすぐ私を捉える。
「お前は誰よりも速い。アメリアが簡単にお前を傷つけることはできないはずだ」
確信を持った声だった。迷いが、一切なかった。
不思議だ。彼の言葉を聞くたびに、本当にそうなんじゃないかと思えてくる。自分でも信じられていないはずなのに、彼が言うと輪郭を持って聞こえた。
しばらく俯いて、石畳の継ぎ目を見つめた。遠くでまた炎が爆ぜる音がする。煙の匂いが濃くなる。
それでも——顔を上げた。
「わかった。が、頑張る……っ」
少し噛んだ。恥ずかしくて顔が熱くなったけれど、引っ込めなかった。オズは満足げに一度だけ頷いた。
「ああ、頼む」
「……あ。け、けど」
そこで気づいて、眉が下がった。
「私……短剣がないよ。今頃、姐さんの肩に刺さったまま……」
言いかけたその瞬間、オズが後ろ手に何かを取り出した。
カチャ、と金属の音が夜気に弾けた。
「はい」
「………ん?」
目の前に差し出されたそれを見て——固まった。
短剣だった。しかも、私がいつも使っていたものとそっくりな形をしている。
「え……え? な、なんで……だってアメリア姐さんの肩に……」
「後、これも」
また聞いてもらえなかった。
今度差し出されたのは、耳に掛けるような小型の無線機だった。言葉を失ったまま呆然としている私の耳に、オズがそれを手際よく装着する。自分の耳にも同じものをつけながら、淡々と続けた。
「アメリアがお前に攻撃しようとすれば、随時これで知らせる。お前は気兼ねなく、突き刺さった短剣に向かって切りつけながら走れ」
「む、無茶だよぉ……」
さっき決意したばかりなのに、もう情けない声が漏れていた。目尻に涙がたまる。それでも、ひとつ引っかかっていることがあって、はっとオズを見上げた。
「ま、待って……アメリア姐さんの喉は——誰が狙うの?」
「僕がやる」
即答だった。
深緑色の瞳がまっすぐこちらを見据えている。その静かな確信に、言葉が出なかった。彼は構わず続ける。
「あの時、アメリアは無意識に喉を庇っていた。正面からは簡単に狙えない……お前が隙を作った瞬間に、僕が遠くから砲弾で貫く」
「け、けど……危険じゃっ」
「お前がアメリアへの告白を決めた時点で、危険なんだ。今更だろう」
ぐはっ、と声にならない声が漏れた。
正論だった。完璧な正論だった。何も言えなくて白目を剥きかけたけれど、オズはそれを見ても眉一つ動かさずに続けた。
「弱気になったら、告白は成り立たないぞ。シャキッとしろ」
力強い声だった。
その言葉にまた我に返ると、背筋が自然と伸びた。
この人は自分に告白してきた。身請けを申し込んできた。そういう人が言う言葉だから、重さが違う——そんなことを、ぼんやりと思った。
「……そう、だね」
下唇を引き結ぶ。
膝の上にお兄ちゃんとお姉ちゃんを一度そっと置いて両頬に手を当てる。
そして、パンっと両手で自分の頬を叩いた。乾いた音が、静かな路地に響いた。
そうだ。私は告白をしに行くんだ。
ゆっくりと、深く息を吸う。吐く。もう一度吸う。肺の奥まで空気が入って、少しだけ頭が冷える。お兄ちゃんとお姉ちゃんを胸に抱き直して、オズをまっすぐ見据えた。
「——うん。行こう」
声が、今度は震えなかった。
オズは何も言わずに手帳をしまって立ち上がった。それから、こちらに向かって手を差し出す。
炎の赤が、その手の輪郭を照らしていた。
いつかの夕暮れに差し出された手を、思い出した。あの時は躊躇った。指先が震えた。それでも重ねた温かさを——今でも覚えている。
今度は躊躇わなかった。
その手を、力強く握り返した。
温かかった。それだけで、またもう少しだけ前へ行けそうな気がした。




