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どれくらい歩いただろうか。
炎を避けながら、崩れた石壁や瓦礫を迂回して、オズは黙って私の手を引いていた。石畳の継ぎ目が煤で黒ずんでいて、足を踏み下ろすたびに崩れた砂利が靴の裏を滑る。遠くから地面を揺らす轟音が届くたびに、空の一角がまた赤く染まった。煙が低く漂って、目の奥がじりじりと痛んだ。
繋がれた手を、呆然と見つめながら歩く。
ヘンリーさんの笑顔が、頭から離れなかった。
あの迷いのない目。炎の方へ踵を返したあの背中。アメリア姐さんのために命を投げ出すことを、ためらいもなく選んだ人。まさかあれほどまでに——そんなふうに誰かを愛せる人が、本当にいるとは思わなかった。
(私がもし……ヘンリーさんだったら、同じことができた?)
問いが浮かんで、すぐに沈んだ。
答えなんて出ない。出るはずがなかった。アメリア姐さんの幸せを願って、自分がリッパーのふりをした。けど結果的にそれは彼女の幸せにならなかった。もっと上手くやれていれば——エリスは撃たれずに済んだだろうか。姐さんがあんなふうになることも、なかっただろうか。
いくら繰り返しても、過去は変わらない。後悔だけが、じわじわと胸の底に積もっていく。
(私は……何もできないの?)
このまま避難所へ行って、震えながら全てが終わるのを待つ。そうしてまた、何も変えられないまま生き残る。
それって——いつもの自分と、何も変わらないじゃないか。
気づいた瞬間、手が動いていた。
繋いでいたオズの手を、静かに離した。
「……マティア?」
足音が止まった。振り返ったオズの深緑色の瞳が、真正面から私を捉える。その視線に喉が詰まった。それでも、後退する気にはなれなかった。
「その……先に避難所行っていいよ。さ、さっきの場所で忘れ物しちゃって……」
我ながら苦しい言い訳だった。声が震えていた。
オズはしばらく無言で私を見つめていた。それから眉を顰めると、私の手首を掴んだ。
「まさか——アメリアのところに行くつもりか」
鼻で笑うような口調だったけれど、その目は少しも笑っていなかった。どこか必死な色が、深緑色の奥に滲んでいた。
やっぱり、この人の前では隠し事ができない。
私は掴まれた手首をそっと振り解いて、目を伏せた。
「……ごめん。アメリア姐さんを止めに行ってくる」
「馬鹿がっ」
低い声だった。苛立ちが滲んで、私はビクッと肩を縮こませた。
「あれはもうお前の知っているアメリアじゃない。いわゆる『災害』だ。関われば今度こそ死ぬ」
「そうだけど……アメリア姐さんを元に——」
「アメリアはもう戻らない」
力強い声だった。遮る余地もなく、残酷な事実だけが石畳の上に落とされた。私の瞳が大きく揺れる。俯いて、下唇を噛んだ。涙が目に溜まる。
事実だからだ。だから何も言い返せなかった。
しばらく沈黙が続いた。炎の爆ぜる音と、遠くで何かが崩れる音だけが、その静けさを埋めていた。
「……お前がアメリアに負い目を感じるのはわかる。けど、あれは結果論だ。過去は変えられない」
オズが静かに続けた。それから私の手を掴んで、また歩き始める。
「行くぞ。ここもいずれアメリアが——」
その手を、また振り解いた。
オズが振り返る。驚いたように目を見開いていた。正直、私が一番驚いていた。
自分でも、何をしているのかわからない。怖い。傷つくのも、死ぬのも、怖い。なのに体が言うことを聞かなかった。足が、石畳に根を張ったように動かなかった。
「——い、嫌だっ」
震える声が、口から漏れる。本当に自分が言ったのか疑ったけれど、確かに自分の声だった。
オズが呆然と私を見つめる。一拍の間があって——今度は目尻を上げて、睨みつけてきた。
「正気か。死にたいのか!」
「死にたくないっ」
「だったらっ……」
「——けど!」
今度は私の声が、彼の言葉を遮った。
もう俯くのはやめた。顔を上げる。まっすぐ彼を見据えて、眉を寄せて——胸の底から絞り出した。
「私、まだアメリア姐さんに告白していないっ!」
声が、炎の轟音の中に弾けた。
オズの目が、大きく見開かれた。困惑の色が深緑色の奥に滲んで、口が半開きのまま止まっている。それでも私は止まらなかった。
「姐さんに……伝えていない! どれだけその笑顔が好きだったか、どれだけ一緒にいたかったか……なんで二人の元から離れたか……全部っ、全部伝えてない!」
怖かったのだ。
養子である自分がいることで、姐さんとエリスという家族に亀裂を生むんじゃないかって。娼婦たちが陰で「かわいそう」とアメリア姐さんに同情する声を盗み聞きしたあの日から、ずっとそれが怖かった。だから苗字を変えて、女子寮に移って、自立しようとした。二人のためだと思っていた。
でも違った。
ただ、逃げていただけだった。いつか二人に幻滅されるのが怖くて、先に逃げていただけだった。
「伝えなかったら、一生後悔する。だから絶対に止めて——愛してるって、言うの!」
声が反響して、消えた。
肩で息をしながら、私はただ彼を見つめていた。こんなにはっきり自分の意思を声にしたのは、生まれて初めてだった気がした。
沈黙が続いた。
それを破ったのは——噴き出す声だった。
「——ふっ、はは!」
「……え?」
まさか笑い声が返ってくるとは思っていなかった。きょとんと瞬きをする間に、オズの肩の震えがどんどん大きくなっていく。お腹を抱えて、笑い声を押し殺しながら。
「え、え? な、なんで笑って……私、真剣に——」
「はは! 真剣に言っているから面白いんだろっ」
この悲惨な夜に、場違いなほど無邪気な笑い声が響き渡る。何がそんなに面白いのかさっぱりわからなくて、私はオロオロするしかなかった。
やがて笑い声が収まって、オズは目尻に溜まった涙を指で拭った。深呼吸を一つして、それから私を見た。
「……悪かった。僕としたことが、冒険心を忘れていたみたいだ」
「……え?」
意味がわからなくて首を傾げる。困惑する私の手を、オズがそっと掴んだ。さっきとは違う、優しい手つきで。
「身請けしにきた男の前で、他の女を口説こうとするなんてな。……気に入った」
口角が、静かに上がった。
その柔らかな笑みに、息を呑んだ。
「僕もその告白に協力しよう。その代わり、条件がある」
一拍置いて、彼はまっすぐ私を見据えた。炎の光が深緑色の瞳を照らして、その奥に揺るぎない何かが宿っていた。
「死ぬな。必ず生きて返ってこい」
胸の奥で、何かが静かに揺れた。
本当は関わらせてはいけない。それはわかっていた。それでも——その言葉が、頼もしくて。情けないくらい、涙が滲んできた。
血と煤で汚れたパーカーの袖で、強く目元を拭う。くしゃっと泣き笑いを浮かべながら、力強く頷いた。
「——うんっ」
握り返した手が、温かかった。
もう逃げない。そう決めた。炎が夜空を赤く染める中、石畳の上で——命懸けの告白が、幕を開けた。




