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ヘンリーさんが駆けてきた。
石畳を蹴る足音が近づくにつれて、その顔の輪郭がはっきりしてくる。煤で汚れた白い軍服、腕に巻かれた布に滲む赤、乱れた青い髪——それでも彼は、私たちを見つけた瞬間に僅かに速度を上げた。
「オズくん、どこに行っていたんだ! あちこち探したんだぞ」
辿り着くなり、ヘンリーさんはオズに向かって声を上げた。責めているというより、心配が怒りに化けたような声だった。
「僕は悪くない。薄鈍なお前らが悪い」
どこ吹く風でオズがそっぽを向くと、腕を組んで涼しい顔でそう返す。ヘンリーさんは一瞬だけ目を見開いて、それから深く息をついた。諦めたように肩の力を抜いて、今度は私と目線が合うようにしゃがんだ。
「マティアちゃん、大丈夫? 顔色が——」
そこで彼の言葉が、ぴたりと止まった。
青い瞳が私の手元に落ちて、それから顔へ、パーカーへ、と忙しなく動く。みるみるうちに顔が青ざめていった。
「血が……っ! どれだけ怪我を——」
「ちっ、ちがうっ! あの……気づいたらこうなってて」
今度は私が顔を青ざめさせて、慌てて首を横に振る。自分でもなぜかわからなかったが、説明できるほど自分でも把握できていないし、ただ首を振ることしかできなかった。
ヘンリーさんの眉間の皺が深くなった。
「気づいたら血まみれになることがあってたまるかっ」
「ひ、ひーん……」
正論すぎて何も返せない。
怒鳴り声に体がビクッと縮こまると、ただ情けない声をあげて目を潤ませた。
「……彼女は無事だ。僕が保証する——それより、なんでここまで来た」
オズが隣から口を挟む。短く、要領よく、何事もなかったかのように。
ヘンリーさんはしばらく私とオズを交互に見つめると……諦めたようにため息をついた。
「……住民の避難が完了した。憲兵と救急隊は今、避難所で待機している」
彼は立ち上がって、遠くを見据えながら続けた。
「ジャバウォックを排除する特殊部隊が間もなく来る。それまでの間、足止めをしなければならない」
遠くで、轟音がした。地面が低く揺れて、石畳の隙間から煙が這い上がってくる。夜空の一角が赤く染まって、火の粉が舞い上がった。
「君たちは早く避難してくれ」
ヘンリーさんがそう言って、私に向き直った。その声は穏やかだったけれど、目が真剣だった。逃げ場のない、真剣さだった。
「ヘンリーさんは……?」
声が、震えた。
彼は一瞬だけ表情を揺らして、それから静かに首を振った。
「アメリアを、あのまま暴れさせるわけにはいかない」
「だ、だめっ……そんなことしたら、ヘンリーさんが……っ」
体が勝手に動いていた。彼の袖を両手で掴んで、引き止める。足元の石畳が、また微かに揺れた。炎の爆ぜる音が遠くで続いていて、風が煙の匂いを運んでくる。
ヘンリーさんが強いことは知っている。それでもあの竜の前では。あの大きさの、あの力の前では——
行けば死ぬ。それだけは、はっきりとわかった。
だから力の限り袖を掴んでいたのに、彼はゆっくりと私の手を外した。一本ずつ、丁寧に。
「ありがとう」
穏やかな声だった。
「けど、アメリアを置いて行けるほど、俺は賢くない」
そう言って、彼は笑った。泣き笑いでも、強がりでもない——ただ、迷いのない笑顔だった。
「それに約束したんだ……彼女のそばにいるって」
息を、呑んだ。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。また涙が込み上げてきて、こぼさないように唇を噛んだ。でも止められなかった。
ヘンリーさんは煙と炎の向こうを指差した。
「ここからは見えないかもしれないが、真っ直ぐ行けば憲兵と救急隊が待機している。一緒に行きたいところだけど——」
言葉を切って、彼は炎の方へ視線を向けた。
夜空を引き裂くような咆哮が、遠くから響いてくる。石畳が揺れる。瓦礫の山が崩れる音がした。青黒い鱗に覆われた巨大な影が、建物の向こうに揺れているのが見えた。
ヘンリーさんの青い瞳が、その影を見つめて細くなる。何を思っているのか、私には読み取れなかった。それでも、その横顔を見ているだけで——なぜか、胸がギュッと締め付けられた。
「……マティアちゃん」
ヘンリーさんが、静かに私の名前を呼ぶともう一度振り返った。
「君を疑って、悪かった」
「ヘンリーさん……」
「アメリアと結婚して、君の養父になりたかった。でも俺には、そんな資格はなかったみたいだ」
悲しそうに目を伏せる、その顔を見た瞬間、涙が溢れた。
「ちがうっ」
叫ぶように言った。声が震えた。
「私は……ヘンリーさんを見て、嫉妬してた。なんで自分じゃないんだろうって……でも、同時にほっとしてた」
唇が震える。それでも、言わなきゃいけない気がした。
「アメリア姐さんを幸せにできるのは、ヘンリーさんしかいないと思ったから……あなたのことをお義父さんって呼ぶ日があってもいいって、思ってた」
ヘンリーさんが、目を見開いた。
長い沈黙だった。炎の音だけが、二人の間を流れていく。やがて彼の表情が——くしゃりと歪んだ。笑おうとして、泣きそうになって、それでもどうにか笑顔を作った顔だった。
「……今言うのは、ずるいな」
声が、かすかに震えていた。
彼は目尻を指で拭って、顔を引き締めた。それからオズに向き直って、力強く頷いた。
「オズくん、彼女を頼むよ」
「……ああ」
ずっと黙って見ていたオズが、短く答えた。
ヘンリーさんはもう一度だけ私を見た。穏やかな、青い瞳で。
「マティアちゃん。君のこの先の幸せを、願っているよ」
それだけ言って——踵を返した。
白い軍服の背中が、炎の光の中へ遠ざかっていく。声をかけようとした。引き止めようとした。でも、言葉が出てこなかった。足も動かなかった。ただ、その背中が炎に溶けていくのを、呆然と見つめていた。
視界が滲む。石畳が揺れる。どこかで何かが崩れる音がした。
気づいたら、涙が頰を伝って落ちる——その時、隣で動く気配がした。
オズだった。
いつもの傲慢な顔でも、観察するような目でもなかった。ただ静かに、私の前に手を差し出した。
何も言わず、ただそこにいてくれた。
私はしばらくその手を見つめて——それから、震える指先を重ねる。
温かかい……。
ヘンリーさんの背中は、もう炎の向こうに消えていた。




