表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

83/113

57

 ヘンリーさんが駆けてきた。


 石畳を蹴る足音が近づくにつれて、その顔の輪郭がはっきりしてくる。煤で汚れた白い軍服、腕に巻かれた布に滲む赤、乱れた青い髪——それでも彼は、私たちを見つけた瞬間に僅かに速度を上げた。


「オズくん、どこに行っていたんだ! あちこち探したんだぞ」


 辿り着くなり、ヘンリーさんはオズに向かって声を上げた。責めているというより、心配が怒りに化けたような声だった。


「僕は悪くない。薄鈍なお前らが悪い」


 どこ吹く風でオズがそっぽを向くと、腕を組んで涼しい顔でそう返す。ヘンリーさんは一瞬だけ目を見開いて、それから深く息をついた。諦めたように肩の力を抜いて、今度は私と目線が合うようにしゃがんだ。


「マティアちゃん、大丈夫? 顔色が——」


 そこで彼の言葉が、ぴたりと止まった。


 青い瞳が私の手元に落ちて、それから顔へ、パーカーへ、と忙しなく動く。みるみるうちに顔が青ざめていった。


「血が……っ! どれだけ怪我を——」


「ちっ、ちがうっ! あの……気づいたらこうなってて」


 今度は私が顔を青ざめさせて、慌てて首を横に振る。自分でもなぜかわからなかったが、説明できるほど自分でも把握できていないし、ただ首を振ることしかできなかった。


 ヘンリーさんの眉間の皺が深くなった。


「気づいたら血まみれになることがあってたまるかっ」


「ひ、ひーん……」


 正論すぎて何も返せない。


 怒鳴り声に体がビクッと縮こまると、ただ情けない声をあげて目を潤ませた。


「……彼女は無事だ。僕が保証する——それより、なんでここまで来た」


 オズが隣から口を挟む。短く、要領よく、何事もなかったかのように。


 ヘンリーさんはしばらく私とオズを交互に見つめると……諦めたようにため息をついた。


「……住民の避難が完了した。憲兵と救急隊は今、避難所で待機している」


 彼は立ち上がって、遠くを見据えながら続けた。


「ジャバウォックを排除する特殊部隊が間もなく来る。それまでの間、足止めをしなければならない」


 遠くで、轟音がした。地面が低く揺れて、石畳の隙間から煙が這い上がってくる。夜空の一角が赤く染まって、火の粉が舞い上がった。


「君たちは早く避難してくれ」


 ヘンリーさんがそう言って、私に向き直った。その声は穏やかだったけれど、目が真剣だった。逃げ場のない、真剣さだった。


「ヘンリーさんは……?」


 声が、震えた。


 彼は一瞬だけ表情を揺らして、それから静かに首を振った。


「アメリアを、あのまま暴れさせるわけにはいかない」


「だ、だめっ……そんなことしたら、ヘンリーさんが……っ」


 体が勝手に動いていた。彼の袖を両手で掴んで、引き止める。足元の石畳が、また微かに揺れた。炎の爆ぜる音が遠くで続いていて、風が煙の匂いを運んでくる。


 ヘンリーさんが強いことは知っている。それでもあの竜の前では。あの大きさの、あの力の前では——


 行けば死ぬ。それだけは、はっきりとわかった。


 だから力の限り袖を掴んでいたのに、彼はゆっくりと私の手を外した。一本ずつ、丁寧に。


「ありがとう」


 穏やかな声だった。


「けど、アメリアを置いて行けるほど、俺は賢くない」


 そう言って、彼は笑った。泣き笑いでも、強がりでもない——ただ、迷いのない笑顔だった。


「それに約束したんだ……彼女のそばにいるって」


 息を、呑んだ。


 胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。また涙が込み上げてきて、こぼさないように唇を噛んだ。でも止められなかった。


 ヘンリーさんは煙と炎の向こうを指差した。


「ここからは見えないかもしれないが、真っ直ぐ行けば憲兵と救急隊が待機している。一緒に行きたいところだけど——」


 言葉を切って、彼は炎の方へ視線を向けた。


 夜空を引き裂くような咆哮が、遠くから響いてくる。石畳が揺れる。瓦礫の山が崩れる音がした。青黒い鱗に覆われた巨大な影が、建物の向こうに揺れているのが見えた。


 ヘンリーさんの青い瞳が、その影を見つめて細くなる。何を思っているのか、私には読み取れなかった。それでも、その横顔を見ているだけで——なぜか、胸がギュッと締め付けられた。


「……マティアちゃん」


 ヘンリーさんが、静かに私の名前を呼ぶともう一度振り返った。


「君を疑って、悪かった」


「ヘンリーさん……」


「アメリアと結婚して、君の養父になりたかった。でも俺には、そんな資格はなかったみたいだ」


 悲しそうに目を伏せる、その顔を見た瞬間、涙が溢れた。


「ちがうっ」


 叫ぶように言った。声が震えた。


「私は……ヘンリーさんを見て、嫉妬してた。なんで自分じゃないんだろうって……でも、同時にほっとしてた」


 唇が震える。それでも、言わなきゃいけない気がした。


「アメリア姐さんを幸せにできるのは、ヘンリーさんしかいないと思ったから……あなたのことをお義父さんって呼ぶ日があってもいいって、思ってた」


 ヘンリーさんが、目を見開いた。


 長い沈黙だった。炎の音だけが、二人の間を流れていく。やがて彼の表情が——くしゃりと歪んだ。笑おうとして、泣きそうになって、それでもどうにか笑顔を作った顔だった。


「……今言うのは、ずるいな」


 声が、かすかに震えていた。


 彼は目尻を指で拭って、顔を引き締めた。それからオズに向き直って、力強く頷いた。


「オズくん、彼女を頼むよ」


「……ああ」


 ずっと黙って見ていたオズが、短く答えた。


 ヘンリーさんはもう一度だけ私を見た。穏やかな、青い瞳で。


「マティアちゃん。君のこの先の幸せを、願っているよ」


 それだけ言って——踵を返した。


 白い軍服の背中が、炎の光の中へ遠ざかっていく。声をかけようとした。引き止めようとした。でも、言葉が出てこなかった。足も動かなかった。ただ、その背中が炎に溶けていくのを、呆然と見つめていた。


 視界が滲む。石畳が揺れる。どこかで何かが崩れる音がした。


 気づいたら、涙が頰を伝って落ちる——その時、隣で動く気配がした。


 オズだった。


 いつもの傲慢な顔でも、観察するような目でもなかった。ただ静かに、私の前に手を差し出した。


 何も言わず、ただそこにいてくれた。


 私はしばらくその手を見つめて——それから、震える指先を重ねる。


 温かかい……。


 ヘンリーさんの背中は、もう炎の向こうに消えていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ