56
『——マティア』
誰かが、名前を呼んだ気がした。
いつの記憶なのか、わからない。どこの記憶なのかも、わからない。ただ、その声だけがひどく懐かしかった。
暗闇の中で、誰かの髪が揺れている。真紅色の、鮮やかな髪が。こちらを振り返ったその顔が、柔らかく微笑んで——
見上げようとした。手を伸ばそうとした。
——けれど、届かなかった。
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「マティア……マティア!」
声が、耳の奥に刺さった。
瞼が重い。体が重い。自分がどこにいるのかも、最初はうまくわからなかった。ただ、遠くから何かが崩れ落ちる音がして、誰かの叫び声がして、何かが激しく爆ぜる音がして——それらが全部、綿越しに聞こえるように遠かった。
視界が、じわりとひらいていく。
最初は何も映らなかった。次第に滲んだ輪郭が浮かんで、色が戻って、焦点が合い始めた頃、深緑色の瞳が真正面から私を見つめていた。
「マティア。僕がわかるか」
静かな声だった。澱みのない、まっすぐな声。それでいてどこか普段の彼からは想像できない、切迫した色が滲んでいた。
私はしばらく、ただ彼を見つめていた。炎の橙色が、そのくすんだ金色の髪を赤く照らしている。眉が、いつもより深く寄っていた。
「お……ず……——けほっ、こほっ!」
声を出した瞬間、激しく咳き込んだ。
口の中に、鉄の味が広がる。何かが気管に入ったように、体が勝手に丸まった。石畳の上に横たわったまま肩を震わせて咳き込み続けると、オズの手が背中に当たった。肩甲骨のあたりを、ゆっくりと撫でる。その手つきがあの傲慢な口調や飄々とした笑みから想像もできないくらい、穏やかだった。
「オズ……なんで……ぇっ」
咳が落ち着いたところで、反射的に自分の手のひらを見た。
血が、滲んでいた。
少量だった。それでも、じわりと赤く染まった掌を見た瞬間、頭が白くなった。放心していると、すかさずオズが口を開く。
「問題ない。もう内臓や体に異常はないはずだ」
「……もう?」
その言葉の意味を咀嚼しようとして、私はふと彼の顔に視線を戻した。
——息が、止まった。
「なんでっ……血! なんで口からそんなに……!」
飛び起きた。体が思うように動かなくて膝がよろけたけれど、構わず彼の両肩を掴んで顔を覗き込む。彼の口元に、赤黒い血の跡が幾筋も残っていた。量が尋常じゃなかった。
「……ああ、大丈夫だ。もう治った」
「治っ……た?」
彼はそれだけ言って、服の袖で口元を拭った。まるで当然のことのように、さらりと。その余裕のある仕草が、かえって私の混乱を深くした。
治った、ってどういうこと。どうして彼がそんなに血を——。
答えを探しかけた頭が、次の瞬間、全部止まった。
オズの肩越しに見えた光景を、私はうまく処理できなかった。
ホーソーン地区が——燃えていた。
娼館が。酒場が。いつも姐さんたちの笑い声が溢れていた、あの石造りの建物たちが。原型をとどめていないほどに倒壊して、そこから火柱が夜空に向かって立ち上っている。辺り一面に積み重なった瓦礫が炎の橙色を照り返して、夜の闇の中でそこだけが昼間のように白く明るかった。濃い煙が石畳の上を這うように漂って、肺の奥に刺さる。遠くから誰かの悲鳴が聞こえて…消えた。
「なに……これ……」
声が、勝手に漏れた。
掌を握りしめる。体の感覚が、遠のいていく。目の前の景色が現実だと、脳がうまく認めてくれなかった。
オズは静かに私を見ていた。しばらく沈黙してやがて、言葉を切り出した。
「……アメリアがジャバウォック化した。お前が攻撃を喰らって伸びている間に、ホーソーン地区は火の海になった。ここも危ない。すぐに移動するぞ」
「……ぇ」
言葉の意味が、すぐには飲み込めなかった。
アメリア姐さんが——ジャバウォック化。
その言葉が、頭の中でゆっくりと形を結んでいく。気を失う前の光景が、ひどくゆっくりと蘇ってきた。鱗に覆われていく姐さんの肌。膨れ上がっていく体。金色の瞳。振り上げられた、あの大きな尾。
「あ……ぁあっ」
頭を抱えて、項垂れた。視界が揺れる。息の仕方が、わからなくなる。
そうだ。あの時、尾が振り下ろされて——私は、確かに飛ばされて——。
ふと、気づいた。
おかしい。
咄嗟に自分の体を見下ろす。パーカーの裾が血と煤で汚れている。手のひらも同じだ。それなのに……あれほど直撃を食らったはずなのに、どこにも痛みがない。骨が折れた感覚も、傷の感覚も、何もない。
「なんで……私、確かに飛ばされて……あれ?」
手を開いて、閉じて、また開く。全部、ちゃんと動く。
これは夢? それとも——。
すると、視界の端に見慣れた色が映り込んだ。
石畳の上に転がっていた人形を、オズが拾い上げて私の手の上に置いた。血と泥で汚れて、ところどころほつれた二体の人形。それを見た瞬間、喉の奥から変な声が出た。
「お兄ちゃん、お姉ちゃん……っ」
咄嗟に胸に引き寄せて、強く抱きしめる。ぼろぼろでも、汚れていても、二人がここにいると、それだけで少しだけ息ができる気がした。
震えが、わずかに落ち着いた。
オズはその様子を黙って見ていたが、やがて口を開く。
「……話はあとだ。とりあえずここを——」
「マティアちゃん! オズくん!」
叫び声が、炎の爆ぜる音を割って飛んできた。
反射的に振り返る。
火の赤に照らされた石畳の向こうから、青い髪を乱しながら駆けてくる人影が見えた。白い軍服が煤で汚れていて、腕に巻かれた布に赤が滲んでいる。それでも関係ないというように、全力で石畳を蹴っていた。
「……ヘンリーさん?」
思わず声が漏れた。
炎の橙色の中に浮かぶその顔は、いつもの穏やかさのかけらもなかった。眉を寄せて、唇を真一文字に引き結んでいる。それでも、こちらを見つけた瞬間だけ、その青い瞳が揺れた。




