55-1
たった数刻で、ホーソーン地区は火の海と化していた。
アメリアだったものが吐き出す炎が、夜の色街を端から端まで舐め尽くしている。いつもなら客引きの灯りで柔らかく彩られているはずの娼館の窓が、今は火柱を噴いて崩れ落ちていた。石畳の上に積み重なった瓦礫が炎の橙色を照り返して、夜の闇の中でそこだけが昼間のように明るい。濃い煙が低くたれ込めて、息をするたびに肺の奥が焦げるように痛んだ。遠くで誰かが叫んでいる。壁が崩れる轟音が、石畳の振動となって足の裏から這い上がってくる。
僕は瓦礫を踏み越えながら、走り続けていた。
「マティアっ……はぁ……マティアっ!」
名前を呼ぶたびに、焼けた空気が喉に刺さる。咳が出る。それでも足を止めることができなかった。
あの瞬間が、頭から離れない。
竜と化したアメリアの尾が振り下ろされる直前、僕の体を突き飛ばして——真紅色の瞳が、こちらをまっすぐ見据えていた。一瞬だった。それだけで全部わかった。守ろうとした。迷いもなく。自分を犠牲にして。
あの馬鹿が。
「マティア……っ!」
もう一度叫ぶ。炎の爆ぜる音に搔き消されて、返事は来ない。来るはずもなかった。それでも叫び続けた。叫ばないでいたら、最悪の可能性を正面から受け止めなければならなくなる気がして——喉が裂けようと構わなかった。
崩れた石壁が行く手を塞いでいた。頭でなく体が動いた。両手で瓦礫を掴んで、脇へ投げ、また掴む。掌が切れて、血が滲む。気にしている場合じゃなかった。
飛ばされた方向に向かって、ひたすら進む。
後ろの方角から今も竜が遠くで動いている気配がした。炎が吐き出されるたびに空が赤く染まり、地面が揺れた。こちらに向かってこない。一方向にしか攻撃しない——気まぐれか、それとも理性の残滓か。答えは永遠に出ないだろうと、頭のどこかで静かに理解していた。あの女がもう元に戻らないことも含めて。
足を止めた。
息を呑む。
炎の光が、瓦礫の山の手前に何かを照らし出していた。
小さな人形だった。マティアがいつも抱えていた、あの人形。汚れて、血の赤が染み込んでいた。その先に——瓦礫の隙間から、白い指先が見えていた。
考えるより先に、地面を蹴っていた。
「——っ」
瓦礫に足を取られて転んだ。膝が石畳に打ちつけられて、鋭い痛みが走る。それでも立ち上がった。痛みなんてどうでもよかった。そんなものを感じている自分が馬鹿らしくなるくらい、胸の中が別のもので埋まっていた。
「マティア!」
声をかけながら、瓦礫に手をかける。一つずつ、力の限りにどかしていく。重い。掌の傷が瓦礫の縁に当たるたびに、じくりと痛みが走る。歯を食いしばって、それでも手を動かし続けた。
炎が爆ぜる音がした。遠くで石壁が崩れる低い轟音がした。それ以外の音が、僕の耳には届かなかった。
——どれくらいの時間が経ったのだろう。
少しずつ、彼女の輪郭が現れ始めた。
薄桃色の髪。いつものパーカー。もう一体抱えていたはずの人形も、すぐ傍に転がっている。
全部が、血に濡れていた。




