5
「うぅっ……どうしよう……」
誰もいない空き教室。埃っぽい空気が窓から差し込む午後の光に照らされている。
学園都市の建国当初に建てられた高台から鳴る鐘がお昼を知らせる——その音を聞くたび、私は決まってここに来て物陰でご飯を食べていた。
……けど、今日は食欲なんて湧いてこない。
それもそのはず。数日前にセドリック会長から頼まれた件……いまだに達成できていないからだ。
「あぁ〜……なんであんなことを承諾しちゃったんだろうっ」
頭を抱えてぶつぶつと独り言を呟く。何度も何度も繰り返し思い出してきた記憶——生徒会室を出る時のあの言葉を、また脳内で再生した。
****
「うへへっ……へっ……へへへっ」
我ながら気持ち悪い笑い声を上げながら、先ほどのやりとりを思い出してニマニマとする。上機嫌に重厚な生徒会室の扉のドアノブに手をかけて出て行こうとすると……彼に呼び止められた。
「あ、待て。マティア」
「! え? ぁっ……な、なんですか?」
彼の呼び声にはっと我に帰ると、慌てて振り返る。先ほど無意識に放った笑い声を聞かれたと思って、羞恥心に頬を赤らめた。
緊張したように固唾を呑んで体をこわばらせる。すると、会長はニヤッと笑って琥珀色の瞳を光らせるように細めた。
「——…期限は今日から一ヶ月後、な」
****
「ぎぃやぁー!!」
できうる限りの小さな声で奇声を上げると、いつもの癖で床を泣きながら転げ回る。
あれから三日が経った。教室は特定した。遠くから彼の姿も確認した。けど肝心の勧誘どころか、声をかけることすらできない。
ポロポロと涙が目からこぼれ出て、上質な木のフローリングに染み渡る。次第に口から嗚咽が漏れ出て、泣きべそをかいた。
「うっうっ……びぇ〜ん。どうしよう……アーノルドお兄ちゃーん、ルミアお姉ちゃーん」
『はいはい。泣くんじゃありません! ……もう本当に僕たちの妹は泣き虫さんですね』
『も〜泣かないで! 三日しか経ってないんだから、まだ大丈夫よ』
「びぇ〜ん」
またもや抱えていた人形二体を天井に向けて掲げ、自分の口を動かす。先日とは違う、自分と同じ髪色をした男女のぬいぐるみ。自分で自作した人形を持ち歩くのが落ち着く私は、毎日別の人形を持ち運ぶのが日課となっていた。
「うぅっ……このままだと会長と恋人になるどころか、学園を退学になっちゃうよ〜っ」
『それは困ったね……どうしよう』
『いや、普通に話しかければいいじゃない』
「無理無理無理無理」
お兄ちゃんとお姉ちゃんの言葉……厳密に言えば自分の言葉に対して、過剰に反応すると何度も首を大きく振る。こんなコミュ障をさらに拗らせたドコミュ障の女が、彼に話しかけられるわけない。
ひたすら鼻水を垂らしながら泣きじゃくる。
もう私に打つ手がない。
「……ひくっ……ぐすっ……どうしよう〜……」
『泣かないでマティア……』
『元気出して! あなたならできるわ!』
人形たちに励まされても、全然心が晴れない。いやだ……このままだと学園を退学させられるどころか、娼館のみんなに迷惑がかかる——それだけは嫌だった。
「うぅっ……姐さんっ」
涙が溜まった瞳で、ある女性の顔が鮮明に脳裏に浮かぶ。天井のシミが彼女に見えてきて、会いたさに思わず鼻を啜った。
ギィ。
——その瞬間。誰も来ないはずの空き教室の扉が開かれた。
「あ、いた」
「ひんぎゃぁーっ!!」
先日も同じやりとりをしたような気がする。床に寝っ転がって泣いていたが、驚きすぎて涙なんて止まってしまった。
ビクッと体を震わせて咄嗟に上体を起こすと、ギギギッと首を動かして、信じられないものを見つめるように目を見開いて固まった。
「え、泣いてた? 大丈夫?」
「え、や、あにょっ……しょのっ……な、なんれ?」
動揺しすぎて声が上ずる。私の動揺を察知したように、橙色の糸目の少女——ネルが冷や汗を垂らすと、困ったように頭を掻いた。
「えっと、ある人にお願いされたから探してたんだよね……手紙を預かってて」
「……て、手紙?」
彼女の言葉を聞いて呆然とする。手紙? 私に? 誰から? 疑問符を何度頭に浮かべても答えが出ない。一瞬会長だと思ったが、その手紙の封筒の色を見て違うとすぐにわかった。
「——ひっ」
「え、早っ!? いや、手紙渡すだけだからそんなに警戒しないで!」
ネルが一歩近づくと、反射的に教室の隅に身を縮こませて逃げる。彼女が悲鳴をあげて逃げる私を見て困ったように眉根を寄せると、少し考えるようにうーんっと項垂れて小さく頷き、手紙を床に置いた。
「えっと……ほら、ここに置いておくね。何もしないから」
武器も何も持っていませんと言わんばかりに両手を広げて私を慰めようとするその姿に、僅かに警戒心が緩む。自分を気遣う様子に罪悪感で胸を痛めると、ネルは若干引いたような引き攣った笑みを浮かべて手を振ってきた。
「なんか、ごめんね? またね」
それだけ言うとネルは空き教室を出て行った。呆然と彼女の後ろ姿を見送る。
ああ、またやってしまった。
「……私のばかっ」
ポツリと呟いた声が、空き教室の静かな空気に消える。表情に影を落とし、罪悪感で痛む胸を押さえながら眉根を寄せた。
はぁ……なんで自分はいつもこうなんだ。
何かあればすぐに逃げ出すし、泣くし……人とまともにコミュニケーションが取れない。オズワルドくんの件についてもそう。自分がもっと外向的な性格だったら……こんなに苦しまなくてもいいのに。
(こんな私が存在していいのだろうか……)
ふとそんなことを考えて、さらに気分が暗くなる。のそりと重たい体を起こすと、教室の隅からゆっくり動いて手紙に一歩一歩と近づいた。
……一体、誰が自分なんかに手紙を書いたのだろう。
思い当たる節がないし、当たり前だが友人と呼べる人もいない。とりあえず、手紙の主だけでも確認しようと屈んで手紙を手に取った。封筒の裏面を確認する。
——すると、目を見開いたまま固まった。
「……………へ?」
声が震え、手紙がハラハラと手から滑り落ちる。
呼吸がまた浅くなり、心臓が嫌な音を立てて不規則に脈打つ。自分の呼吸音が乱れる様子を鼓膜で聞きながら、震える瞳を下ろして、その手紙に丁寧に綴られた名前をもう一度目にした。
——シーリングスタンプに刻まれた青い蝶の紋章にそのファミリーネーム……間違いない。
手紙の送り主は、私の悩みの種である『オズワルド・ウィズダム』からだった。




