53-1
「……エリス?」
声が、震えた。
人だかりの向こうに見えたその姿を認識した瞬間、思考が止まった。
金色の、鋭い瞳孔。全身のあちこちに滲む青黒い鱗。サイドテールが解けて乱れた茶色の髪が、夜風にゆっくりとなびいている。街灯の光がその輪郭を淡く縁取って、まるで夢の中の景色みたいに現実感がなかった。
でも——エリスだった。
どれだけ姿が変わっていても、それだけはわかった。
「なんで……その姿……」
口が動いた。声になったのか、ならなかったのか、自分でもわからなかった。
アメリア姐さんがリッパーとして現れた先ほどの光景が、脳裏に重なる。同じ金色の瞳。同じ鱗。同じ鉤爪。
——エリスも、引き継いでいたのだ。
最悪の可能性が頭を掠めた瞬間、全身から体温が抜けていく感覚がした。
ホーソーン地区の夜は、にわかに騒がしかった。先ほどまで遠巻きに成り行きを見守っていた人だかりが、エリスの姿を目にして声を上げ始める。石畳の上に街灯の光が溶けて、建物の影が揺れている。秋の夜気が重く肌に貼りつく中、あちこちから囁き声が広がっていった。
「エリスっ」
先ほどまであれほど冷えた表情を浮かべていたアメリア姐さんが、まるで嘘のように顔を歪ませてエリスを見つめた。次の瞬間、体ごとエリスへ向かって踏み出す。
「——だめだ、アメリア!」
ヘンリーさんが姐さんの肩を抱いて静止した。治療したばかりの傷が疼いたのか、アメリア姐さんが苦しそうに顔を歪める——その瞬間だった。
「触るなっ‼︎」
エリスの咆哮が、夜の石畳を震わせた。
ビリビリと振動が空気を伝って、鼓膜の奥まで届く。人だかりからいくつもの悲鳴が弾けて、後ずさる人影が石畳の上に乱れた影を作った。
「——獣人だっ!」
誰かが叫んだ。
その一言が引き金になったように、人だかりが崩れ始める。蜘蛛の子を散らすように逃げていく人影が、街灯の光の中を横切っては消えていく。石畳を蹴る足音が重なって、夜の静けさをかき乱した。
「……なんでっ」
混乱の中、エリスの震える声だけがはっきりと届いた。
「エリスっ」
名前を呼んで、駆け寄ろうとした。
……けど、エリスの言葉によって足が止まる。
「なんで……なんでお母さんが捕まってるの? なんでマティアお姉ちゃんの短剣が刺さってるの?」
エリスが今にも泣きそうな顔で声を張り上げる。金色の瞳が細くなって、視線が私を射貫いた。
胸が張り裂けるようだった。
何も言えないまま立ちすくんでいると、エリスの呼吸が乱れていくのが遠くからでもわかった。胸が上下するたびに、その息が白く霧散する。
「はぁ……お母さん……なんで? はぁ……私、変なの。多分知っているのに、何も思い出せないっ」
懇願するような声だった。一歩、また一歩と、こちらへ近づいてくる。
ヘンリーさんがアメリア姐さんの前に立ちはだかった。両手を広げて、穏やかな声でエリスに呼びかける。
「エリスちゃん、違うんだ。後で話を——」
「うるさいっ‼︎」
二度目の咆哮が、夜気を揺らした。
逃げ遅れた人々が、また悲鳴を上げて後退する。石畳を踏む足音が慌ただしく乱れた。
「なんでお前がお母さんを捕まえているのっ。お母さんのこと、好きじゃなかったのっ⁉︎」
ヘンリーさんが言葉に詰まった。
その一瞬の隙をついて、アメリア姐さんがヘンリーさんを押しのけて前に出た。手錠で拘束された両手を前に垂らしたまま、縋るように声を上げる。
「違うのよエリスっ、私はっ——」
「……お母さん、怖いよ」
エリスの声が、ひどく小さくなった。
今にも泣き崩れそうな表情のまま、金色の瞳がアメリア姐さんを映している。その瞳の端に、じわりと涙が滲み始めていた。
「何が起こっているのかわからないよ……ねぇ、最近ずっと悪い夢を見るの」
アメリア姐さんの体が、ビクッと強張った。
「男の人が……お母さんをいじめるの……だから助けないとと思って……私が——」
——バン。
乾いた音が、夜の石畳に弾けた。
全ての音が、消えた。
エリスの腹部に、赤い花が滲み始める。
じわりと、じわりと——石畳の灯りの中で、その赤が広がっていく。エリスがゆっくりと自分の体を見下ろした。金色の瞳が、大きく、ゆっくりと揺れる。
「——ぇ?」
掠れた声が、夜気に溶けた。
鱗が、剥がれていく。
青黒い硬質なそれが端から薄くなって、ただの白い肌に戻っていく。金色の瞳から光が引いて——いつもの、金茶色の瞳に戻った。
鉤爪のない、小さな手が。
腹部をそっと押さえた。
手のひらを、見た。
——その瞬間、エリスの膝が折れた。
「エリスっ‼︎」
声が出た。気づいたら地面を蹴っていた。アメリア姐さんより先に着いた。石畳に膝をついてエリスを抱き上げる。体が小さい。信じられないくらい、軽かった。
「エリスっ、エリスっ‼︎」
必死に名前を呼ぶ。返事が来ない。どうして。どうしてこうなったの。頭の中でその問いだけが何度も回った。答えは出なかった。
「かはっ……けほっ……」
小さな口から、血が零れた。
その光景だけで、心臓が凍りついた。
「嫌だっ……エリス……嫌だよぉ」
声が震えた。涙が出た。止められなかった。
「エリス‼︎」
アメリア姐さんが私の後に続いて石畳に膝をついた。手錠をはめられた震える手が、エリスの頬にそっと触れる。普段の穏やかさが消えて、その顔からは一切の色がなくなっていた。
「ああ、なんてことっ……エリス、お母さんよ。もう大丈夫だからっ」
悲痛な声が耳を掠める。
「お……母……さん」
虚ろになった金茶色の瞳が、アメリア姐さんを映した。掠れた声が夜の石畳に落ちて、消えていく。エリスの小さな手が、ゆっくりと持ち上がった。アメリア姐さんへ向けて、伸びた。
アメリア姐さんがすかさずその手を両手で包む。手錠の金属が冷たい音を立てた。
胸が、張り裂けそうだった。
「エリス……っ」
「……ごめんね」
エリスが、笑った。
掠れた声でそれだけ言った瞬間——その手が、力なく石畳に落ちた。
「……エリス?」
声が震えた。名前を呼んだ。
返事は、なかった。
胸の中で力なく横たわる小さな体を、私はただ見下ろしていた。言葉が出ない。涙も出ない。何も出てこなかった。
「……あ」
アメリア姐さんの乾いた声が、鼓膜を震わせた。
顔を上げると——姐さんが絶望した顔で涙をこぼしていた。声を出そうとして、出せないように、唇だけが震えている。夜の石畳の上に、その涙が一粒落ちた。
「——ああああぁぁああぁっ‼︎」
断末魔が、夜のホーソーン地区に響き渡った。
街灯だけが、変わらず石畳を照らしていた。




