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52-2

 ————。


 ザシュッ。


 鈍い音が、路地に弾けた。


 衝撃は来なかった。


 代わりに、重たいものが体に倒れかかってくる感触がした。何が起きたのかわからないまま、恐る恐る瞼を開ける。


 夜の薄闇が、目の前に広がっていた。


『………チャールズ?』


 震える声が、自分の口から漏れた。


 馬乗りになっていたはずの男が、倒れ込んでいる。石畳の上に膝をついたまま、硬直したように動かない彼に触れようとして——その背中に、手が触れた。


 べた、と。


 濡れた感触が、掌いっぱいに広がった。


『……ひっ』


 反射的に手を引いた。


 見えなかった。暗すぎて、自分の手が何色になっているか、最初はわからなかった。それでも、手のひらを翳した瞬間——夜目で暗闇に慣れた目ではっきりと赤が、見えた。


 血だった。


 手のひら全体に、赤が広がっていた。


 チャールズを押しのけて後ずさる。尻餅をついた石畳が、骨まで冷えるように冷たかった。振り返ったチャールズの背中が——深く、大きく、切り裂かれていた。そこから赤が溢れて、石畳の隙間に流れ込んでいく。


 言葉が、出なかった。


 助からないと、理解だけが先にやってきた。動かない。呼吸をしていない。赤が広がっていく一方で、彼の体は静止したまま、石畳の上に崩れ落ちていく。


 視線が、その赤から離せなかった。


 ——喉が、鳴った。


 乾きを感じた。


 暗い路地の底で、広がっていく赤を見つめながら、体の奥から何かが滲んでくる感覚があった。恐怖とは違う。嫌悪とも違う。もっと奥の、言葉にできない場所から——じわりじわりと、這い上がってくる何か。


 金色が、視界に滲んだ。


 瞳が熱くなる。世界の色が変わる。赤が——さっきよりずっと、鮮明に見えた。


 きれい。


 その言葉が、頭の中に浮かんだ瞬間——


『……お母さん』


 声が、聞こえた。


 蚊の鳴くような、か細い声だった。


 弾かれるように顔を上げる。


 路地の入り口に、小さな人影が立っていた。


 街灯の光が、その輪郭を淡く照らしている。よく知っている顔だった。サイドテールが解けて、茶色の髪が乱れている。金茶色のはずの瞳が——今は金色に輝いていた。瞳孔が細く、鋭く裂けている。腕から青黒い鱗が這い上がって、指先が鉤爪に変わっていた。


 その手が、血で濡れていた。


 ——エリス。


 声が出なかった。


 掠れた音が喉から漏れただけで、言葉にならなかった。


 娘は震えていた。全身を、小刻みに。ただその場に立ちつくして、チャールズの遺体を見下ろし——それから、私を見た。


 その瞬間だった。


 金色の瞳に、涙が溜まっていくのが見えた。


『……ちがっ、違うのっ』


 エリスの唇が震えながら動いた。嗚咽が混じって、声が割れる。


『私……お母さんが心配で、迎えに行こうとしたら……お母さんが、この人に追いかけられているのが見えて……それでっ』


 言葉が途切れた。震えた息が、白く夜に散る。


『ぐすっ……死んじゃったの? ……私の……私のせいでっ』


『違う!』


 気づいたら体が動いていた。石畳を蹴って立ち上がり、エリスのもとへ駆け寄って——その小さな体を、両腕で強く抱きしめた。


 鱗に覆われた腕が、私の背中に回る。血で濡れた指先が、ドレスを掴む。それでも構わなかった。ただ、この温かさを手放したくなかった。


『あなたは何も悪くないっ。誰も殺してないわっ!』


 声が震えた。強がりだとわかっていても、それしか言えなかった。


『ひくっ……うぅっ……』


 エリスがしゃっくりを上げながら泣き崩れる。その嗚咽が耳に届くたびに、胸の奥が千切れそうになった。


 自分のせいだ。


 私がこんな夜中に出かけたから。私が抵抗できなかったから。私がずっと、この子に嘘をついていたから。


 頭を撫でながら、エリスの髪に顔を埋めた。石鹸の匂いがした。いつもと同じ、この子の匂いがした。


『エリス……お母さんを見て』


 やわらかく、しかし迷いなく言った。


『大丈夫。今夜のことは、何も起きなかったのよ』


 エリスの体が、ビクッと揺れた。


『誰にも言っちゃだめ……いいわね?』


『けど……おじさん……おじさんが動かないよっ』


 泣きながら顔を上げるエリスの目を、まっすぐ見つめた。


 胸が痛い。この子にそんな顔をさせてしまっていることが、ただただ苦しかった。


『——大丈夫。お母さんが、全部なんとかするから』


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