52-1
短剣が振り下ろされた瞬間、体が勝手に動いた。
紙一重で横に転がって刃を躱し、石畳に手をついて立ち上がる。一瞬の隙を見て能力を解放した。瞳が金色に燃えて、腕に青黒い鱗が這い上がる。指先が変形して、鉤爪が伸びる。
狙いを定めて——振り下ろした。
だが、その一撃はあっさりと空を切った。
チャールズが身をかわしていた。
『——っ』
体重を崩した瞬間を狙われた。肩を掴まれ、石畳に叩きつけられる。背中が冷たい地面に打ちつけられて、肺の空気が一気に抜けた。馬乗りにされて、身動きが取れない。首元に、剣先がそっと押し当てられた。
見下ろしてくる茶色の瞳は、少しも揺れていなかった。
『無駄だ』
ひどく穏やかな声だった。それが、凶器のように喉に刺さった。
『そもそもお前は、人を傷つける術を知らない』
笑みを浮かべながら、チャールズは剣先をゆっくりと動かした。皮膚の表面を撫でるように。細い痛みが走り、石畳に血が一滴、落ちる。
『確か——喉が弱点だったよな?』
足が動かない。腕が動かない。能力の鱗が剥がれて、ただの白い肌に戻っていく。抵抗する気力が、恐怖の前に全部消えていく。
彼の言う通りだった。チャールズは私のことを、なんでも知っていた。能力の弱点も、逃げ癖も——怖いと思えば思うほど何もできなくなる、この性質も。
深夜のホーソーン地区は、恐ろしいほど静かだった。
昼間は娼館の灯りと笑い声で満ちているこの街が、深夜になると別の顔をする。石畳の上が冷たい、どの扉も閉じて、人の声がしない。建物の輪郭が闇に沈んで、路地の奥がどこまで続いているかわからない。秋の夜気が肺に刺さるように冷たくて、吐く息が白く霧散する。
こんな場所で——誰も来ない。
唇が震えた。
『……お願いっ』
震える声が、石畳の上に落ちた。情けなかった。でも、もうそれしかなかった。
『なんでもするから……っ』
チャールズの目が、細くなった。
『……へぇ』
一拍の沈黙。剣先が止まる。声が、一段と低く落ちた。
『なんでも』
繰り返す声に、粘ついた何かが混じっていた。
次の瞬間、また短剣がゆっくりと持ち上がった。
『もっと早く言っていれば——死なずに済んだのにな』
吐き捨てるような声だった。
覚悟した。目を閉じた。
エリス……マティアっ。
二人の顔が、暗闇の向こうに浮かんだ。ごめんなさい。声にならない謝罪が、鼓膜の奥で鳴り響いた。また会いたかった。エリスの笑顔をもっと見ていたかった。マティアに母親らしいことをもっとしてあげたかった。
短剣が振り下ろされる——その瞬間を、固く瞼を閉じながら待った。




