48-1
乾いた音が、夜気を裂いた。
反射的に体が動いていた。石畳を蹴って半歩横へ跳んだ瞬間、銃弾が耳元の空気を薙いでいく。髪の毛一本分の差だったかもしれない。膝をついて着地した石畳が、じんわりと冷たかった。
「マティアっ!」
オズの声が路地に弾けた。
顔を上げようとした、その瞬間だった。
両肩を、複数の手が同時に押さえた。
「っ——ぁっ!」
抵抗しようとしても、もう遅かった。後ろから腕を取られ、引き起こされると、冷たい金属の感触が頭の横に押しつけられる。銃口だった。
息が止まった。
ゆっくりと、震えながら目だけで周囲を確かめる。建物の影から、路地の奥から——いつの間にか、人の輪が出来上がっていた。連行されたエミリー姐さんたちの中にいなかった顔が、そこにあった。
「イザベル……姐さん?」
声が、掠れた。
イザベル姐さんが、私の頭の横に銃口を当てたまま、まっすぐこちらを見下ろしていた。その表情は、私の知っているあの柔らかい笑顔とは別物だった。唇を噛んで、眉を寄せて——今にも泣き出しそうな顔で、それでも引き金から指を離さなかった。
石畳に膝をついたまま、頭の中がゆっくりと処理を追いかける。
さっき連行されたエミリー姐さんとセリーナ姐さん達は——囮だったのだ。
「動くな」
マダムの声が、路地に響いた。
コツ、とヒールが石畳を踏む音がして、周囲の空気がまた変わる。路地の冷気が一段と重くなる気がした。紫煙の甘ったるい匂いが、夜の湿気に交じって漂ってくる。
マダムがゆっくりとオズに向き直って、口角を上げた。
「そうさ、全部私が仕組んだ——だが、そんなの関係ない」
キセルを指に挟んだまま、余裕のある声だった。私の状況を確認して、満足したように続ける。
「あんたがその〝能力〟を使えば——みんな、忘れるんだから」
〝能力〟。
その一言が、路地の石畳に落ちて、転がった。
周囲がざわついた。憲兵たちが顔を見合わせる気配がした。
私も、思わず顔を上げていた。
——能力?
オズは無能力者だ。彼に声をかけるために調べていたから間違いない。それなのに、なぜマダムが——。
恐る恐る、視線を彼へ向けた。
目を、見開く。
オズが、固まっていた。
いつも飄々として、何があっても崩れない、あの顔が。深緑色の瞳が大きく見開かれて、口が半開きのまま動かない。あれほど傲慢で、何でも見透かすような顔をしていた彼が——本当の意味で、動揺していた。
それだけで、わかってしまった。
本当のことを、言っていなかったんだ。
オズはやがて眉間に深い皺を寄せると、マダムを睨みつけた。その視線はマダムを向いているようで、その先のもっと遠い何かに向けられているように見えた。
「……老害めがっ」
低い声だった。圧のある、殺気に近い声。普段の彼が持つ軽やかな嫌みとは、まるで質が違った。
その一言で、路地の空気が変わった。隣に立っていた憲兵の一人が、無意識に半歩引く。娼婦の一人が、怯えたように体を縮こませた。
——そしてその娼婦の手が、石畳の上に落ちていた私の短剣を拾い上げた。
冷たい刃先が、喉元へ向けられる。
「やめろっ! 何を考えている——なぜここまでする!」
ヘンリーさんの声が路地に響いた。普段の穏やかさが、完全に剥がれていた。
イザベル姐さんが、ギラついた目でヘンリーさんを見る。その表情は、激しい怒りと今にも崩れそうな何かが混ざり合っていた。
「なぜですって?」
声が震えていた。
「私たちの居場所が、なくなるからに決まっているでしょっ!」
その言葉が、胸の奥に刺さった。
娼館で不正が発覚すれば、居場所をなくす。行く当てのない女たちにとって、ここは最後の場所だ。やりたくてやっているわけじゃない。ただ、自分の場所を守るために——それだけのために。
「マティア……あなたが……あなたがあの時、憲兵についていけば……私たちはっ」
イザベル姐さんの声が、震えながら私を呼んだ。苦しそうに顔を歪めて、それでも私から視線を逸らさなかった。
喉の奥が、ひりひりと痛む。
みんなが知っていたのだ。私がリッパーのふりをしていることを。だからアメリア姐さんに何かを言おうとするたびに、遮られてはぐらかされた。
「……ごめんなさい」
それしか、言えなかった。
石畳の冷たさが膝を通して伝わってくる。涙が滲んで、視界が揺れた。罪悪感が全身に絡みついて、重くて、どこにも逃げ場がなかった。
「——で、どうするんだい」
マダムの声が、路地を滑るように落ちてきた。
オズは下唇を噛み締める。怒りを堪えているような、それとも何かを必死に計算しているような——いずれにしても、私は彼がああいう顔をするのを知らなかった。
マダムはその様子を一通り眺めてから、鼻で笑った。ゆっくりとキセルを口に運んで、顎でしゃくる。
「少し、痛めつけてやりな」
「! 待て、まだ返事もしていないだろっ」
「少し遅い」
オズの声を軽くあしらって、紫煙を吐き出す。
私を押さえていた娼婦の手が、わずかに震えた。短剣を持つ指先が白くなっている。その表情は固く強張っていて、でもその目は怯えていた。泣いているわけじゃないのに、泣いているみたいな顔をしていた。
短剣が、持ち上がった。
「や、やめて……やめて、姐さんっ」
声が震えた。涙がこぼれた。止められなかった。
「……ごめんねっ」
切羽詰まった声が返ってくる。
短剣が振り落とされる。
私は固く目を閉じた。衝撃に備えて全身を強張らせた。歯を食いしばって、息を止めた。
————。
…………?
来ない。
衝撃が、来なかった。
どれくらい経っただろう。体が震えているのに、痛みがない。まだ意識がある。恐る恐る、瞼を持ち上げた。
——目を見開いた。
「アメリア……姐さん」
声が、かすれた。
私の目の前に、藍色のドレスがあった。
手首に手錠をはめられたまま、アメリア姐さんが私に覆い被さっていた。肩から短剣が生え、赤が……ドレスの肩口に滲んで広がっていく。
ゆっくりと、姐さんが顔をあげた。
金茶色の瞳が、私を映していた。
痛みを堪えるように眉を寄せながら——私を見て今にも泣きそうな表情で静かに笑っていた。
路地が、水を打ったように静まり返る。
建物の隙間から覗く空は深い藍色で、昼と夜の境目はもうどこにもない。街灯の光も届かないこの路地の底で、姐さんの金色の髪だけが、闇の中でほんのりと浮かんでいた。




