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 マダムは答えなかった。


 栗色の瞳がオズを射貫くように見据えたまま、キセルの煙だけがゆらりと夜気に溶けていく。路地の石畳は夕暮れの色をとっくに失って、街灯の光が届かないこの場所はただ暗く、湿った冷気だけが肌に貼りついていた。建物の隙間から覗く空は深い藍色に変わっていて、昼と夜の境目がもうどこにあるのかわからない。


 オズがポケットに手を入れた。


 取り出したのは、小さな光源だった。カチ、と乾いた音がして——その光がマダムの手元へ向けられた瞬間。


 白い指先が、淡く光り始めた。


「なっ……」


 誰かの声が漏れた。自分だったのか、他の誰かだったのか、わからなかった。


 蛍光色の光が、マダムの手の甲に滲んでいた。指の間にまで、均一に。洗っても落ちない——オズがあの夜、コートに仕込んでいた塗料と、同じ色だった。


 心臓が、ゆっくりと沈んでいく気がした。


「マティアがリッパーに扮していた時に仕込んだ塗料だ」


 オズが光を消した。路地がまた暗くなる。


「恐らく彼女の部屋に侵入して衣装を盗んだ時に、手に移ったんだな」


 一拍置いて、続ける。


「エリスが白骨遺体を見つけたことで計画が狂った。だから急遽、マティアを犯人に仕立て上げようとした——そういうことだろう。エリスではリッパーに仕立てるには無理がありすぎる」


 マダムは沈黙していた。


 睨むような視線だけが、オズに向いている。路地の奥で風が動いて、積み上がった夜の冷気がひとかたまり流れていった。誰も動かない。憲兵たちが固唾を呑む気配がした。


 オズはその沈黙を楽しむように、口角だけをわずかに上げた。


「ちなみにその塗料は希少だ。滅多に手に入らない」


 視線が、マダムの手元に落ちる。


「なのになぜお前の手に付いているのか——説明してもらおうか」


 静寂が、落ちた。


 長い沈黙だった。マダムはキセルを口に運んで、煙を吸った。それから細く吐き出して、ゆっくりと視線を地面に落とした。


 ——その瞬間、何かが変わった気がした。


「……昔、災害があってね」


 低い声だった。抑揚のない、乾いた声。


「娼館が半壊して、建て直すのに金が必要だったのさ。あの頃は今みたいに余裕がなくてね——富裕層から借りた」


 周りが、静かに聞いていた。


 ——あ。


 あの時、廊下に積み上げられていた工具の顔が頭をよぎる。改修工事の作業員たち。あれは普通の老朽化じゃなかったのかもしれない——今になってようやく、そう気づいた。


「そしたら付け入ってくるようになった。あれをしろ、これをしろ、言うことを聞かなければ借金を公にすると。……クイーンズ・ヘイブンの看板に傷がつく」


 キセルの先から、細い煙が上がる。


「——そこへアメリアが泣きながら来た」


 マダムの視線が、アメリア姐さんへ向いた。


「チャールズを殺してしまった……ジャバウォック化が止まらないってね」


 アメリア姐さんの肩が、わずかに揺れた。


「都合がよかった。あの事件に紛れ込ませれば、誰も疑わない。娼館のためだ。あの連中には消えてもらうしかなかった」


 淡々とした告白だった。


 周りが息を呑んでいる。憲兵の一人が、視線を落とした。娼婦の誰かが、小さく唇を噛んだ。冷ややかな眼差しで彼女を見る者もいれば、黙って俯く者もいた。


 私はただ立っていた。


 マダムの声を聞きながら、胸の中でいくつもの感情がぶつかり合った。どれを先に感じればいいのかわからない。


 怒りもあった。悲しみもあった。この人が何十年もかけて守ってきたものの重さが、声の端々から滲み出ていて——それでも、だからといって許せるわけじゃないのに。うまく整理できないまま、ただ聞いていた。


 アメリア姐さんはずっと俯いていた。


 マダムの告白が進むたびに、その肩が小さく揺れる。その横顔を見ていられなくて、視線を石畳に落とした。


 オズだけが、静かにマダムを見据えていた。


 眉がわずかに寄っている。何かを測るような、あの目だった。


「……やっと自白したか」


 ぽつりと言った。


「だが——やけに素直だな」


 周りが呆気に取られる。私も、思わず彼を見た。


「お前はやったことはクソだが、娼館のために自らを削ってきた強さがある。そんな人間が、これほど簡単に落ちるか」


 珍しかった。オズが誰かをそういう言い方で認めるのを、私は初めて聞いた。


 マダムが、ふっと口角を上げた。


 その笑みを見た瞬間——背筋が凍った。


 乾いた破裂音が、路地に炸裂した。


「マティアっ!」

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