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夕暮れの最後の光が、石畳の隙間に溶けていく。
ヒールの音が止んだ。紫煙がゆらりと夜気に混じって、消えた。マダム・アッシュクロフトが路地の中心に立って、まっすぐオズを見据えている。その顔に、驚きも狼狽もなかった。ただ——冷たかった。いつも通りの、あの冷たさだった。
私は声が出なかった。
何度も叱られた。何度も怖い思いをした。それでも、この人がここにいる理由を——今この瞬間まで、信じたくなかった。
「……なんで」
呟いた声が、空気に溶けて消えた。
マダムは私を見なかった。キセルを口に運んで、ゆっくりと紫煙を吐き出す。
「私が真犯人だって? ……何を言い出すのやら」
静かな声だった。
「騒ぎを聞きつけて来ただけだよ。この状況に戸惑っているのは同じさ」
「発砲しておいて、よく言う」
オズが鼻で笑った。
「お前はアメリアの事件を利用した。娼館に都合の悪い人間を消すために——彼女の衝動を、道具として使ったんだろう」
「……何?」
マダムの瞼が、ぴくりと動いた。
それだけだった。表情はほとんど変わらない。それなのに、その一瞬の動きだけで、路地の空気が変わった気がした。
オズはポケットに手を入れた。取り出したのは、折り畳まれた羊皮紙だった。
「イライザ・ベック。ニック・キャロル。ジョージ・ニール」
一人ずつ、名前を読み上げる。
「被害者たちに共通点は見当たらない。見境のない犯行に見える。だが——全員、お前と接触した形跡があった」
羊皮紙を広げて、マダムへ向ける。
「なんでも、ほとんどの被害者から借金をしていたそうだな」
周囲が、静まり返った。
——あの日。
中庭に向かう前に、マダムの書斎からオズが出てきたあの瞬間が頭をよぎった。「留守だったから入った」と涼しい顔で言っていた、あの顔。あれは探していたのだ、と——今になってようやく理解した。
マダムの目が、羊皮紙の上で一度だけ止まった。それからゆっくりと、オズへ戻る。
「……それだけで私が犯人だと?」
声に、わずかな力が戻っていた。
「アメリアが勝手に見境なく殺した可能性だって、あったはずだよ」
アメリア姐さんの肩が、ビクッと跳ねた。
私は反射的に彼女の方を見た。俯いたまま、唇を噛んでいる。拳が、ドレスの裾をきつく握りしめていた。
オズは首を振った。
「確かに、その可能性は捨てがたかった。だが——彼女には、理性がある」
一拍置いて、続ける。
「現に、恋人の腕が貫かれた瞬間に動きが止まった。凶暴性があっても、感情の核だけは残っていた。そういう相手に、無差別な殺人の全責任を負わせるのは無理がある」
そこでオズが、アメリア姐さんの方へ歩き出した。
——次の瞬間、ドレスを裂く乾いた音が響いた。
「はっ⁉︎ 何をしているんだ君は‼︎」
ヘンリーさんの叫びが路地に弾けた。
「ぎゃああああ! アメリア姐さん‼︎」
反射的に両手で顔を覆った。真っ赤なのが自分でもわかる。覆ったはずなのに——指の隙間から、目が勝手に向いてしまった。
アメリア姐さんの白い素肌が、夕暮れの残光に晒される。
「——ぇ」
その肌を見た瞬間、息を呑んだ。
滑らかで、美しいはずのその肌に——痛々しい傷の跡が、いくつも走っていた。鋭利な爪で引き裂いたような、細く深い傷が、重なり合うように刻まれている。どれも古い傷ではなかった。繰り返された、時間のかかった傷だった。
言葉が、出なかった。
路地が凍りついた。憲兵たちが息を呑む気配がした。ヘンリーさんが、その青い瞳を震わす。
オズは静かに、アメリア姐さんを見た。
「自分で殺人衝動を抑えていたんだろう。だから肌を見せない衣服を選んで——恋人との婚約も拒んだ。違うか」
アメリア姐さんは動かなかった。
しばらく、石畳の一点を見つめていた。それから俯いて、ゆっくりと口を開いた。
「……そうよ」
かすれた声だった。
「チャールズを殺してから——ずっと、抑えてきた。自分を傷つければ、少しだけ楽になれたから。でもそれにも限界があって……だからマダムの言葉に、私は」
そこで声が途切れた。
続きは言わなかった。言わなくても、もう十分だった。
私は唇を噛んだ。泣きそうなのを堪えて、視線を姐さんの傷跡から逸らした。でも逸らせなかった。この傷の数が、抑えてきた時間の長さだと思ったら——喉の奥が、ひりひりと痛んだ。
マダムは表情を変えなかった。
ただ、キセルの先から細い煙だけが上がっていた。
「出鱈目だね」
吐き捨てるような声だった。
「私に罪をなすりつけようとしているのが、見え見えだよ」
オズが、鼻で笑った。
「この期に及んで、まだとぼける気か」
一歩、踏み出す。夕暮れの残りが完全に消えかけた路地で、その深緑色の瞳だけが鮮明に光っていた。
「証拠がないと言ったな」
口角が、わずかに上がる。
「——あるぞ。証拠なら」
マダムの栗色の瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。




