45
銃声が、止んだ。
耳の奥にまだ残響が鳴っている中、路地の入り口から憲兵たちの声が飛んできた。
「——全員確保!」
どっと肩の力が抜ける感覚がした。これ以上あの音を聞かなくていい——そう思ったのは、ほんの一瞬のことだった。
連行されてくる人影を見た瞬間、その安堵は音もなく砕けた。
「……エミリー姐さん?」
声が、震えた。
銃を取り上げられ、手錠をはめられながら引き出されてくるその顔を、私は知っていた。クイーンズ・ヘイブンで何度も笑い声を聞いた、あの顔だった。歪んだ表情で石畳を踏む足元が、普段の優雅な姿とかけ離れていて——見ていられなかった。
「セリーナ姐さんも……」
二人だけじゃなかった。
次々と現れる顔に、見覚えがある。ある人は唇を噛んで俯き、またある人は憲兵の腕を振り払おうと身をよじっている。夕暮れの残光が石畳に溶けかけた路地で、見慣れた顔がどんどん増えていく。
喉の奥が、詰まった。
「なんで……っ」
問いが宙に浮いたまま、誰も拾ってくれなかった。娼婦たちは私と目を合わせようとしない。憲兵たちは粛々と仕事を続けている。路地の湿った空気が、かえってやけに静かだった。
隣でオズが目を細めた。観察するような、しかし驚きのない目だった。ひとつ小さく息をついて、独り言のように呟く。
「……やはり、な」
「え……それって——」
「アメリア!」
声が飛んできた。
路地の入り口から走り込んでくる人影を見て、咄嗟に私は身を引いた。肩が石壁に触れる。アメリア姐さんの隣から、一歩だけ遠ざかった。
息を切らして駆け寄ったヘンリーさんが、そのまま姐さんの両肩を掴んだ。
「どうしてそんな格好を——誰かに嵌められたんだろう? 何か言ってくれ」
私は今まで、ヘンリーさんのこんな声を聞いたことがなかった。いつも穏やかで、節度があって、静かな人。それなのに今は、眉を震わせながら縋るようにアメリア姐さんを見つめている。
「アメリアっ」
名前を呼ぶ声が、痛かった。
姐さんは俯いたまま、何も答えなかった。
石畳の上で、黒いケープの裾だけが夕風にわずかに揺れていた。その沈黙が——答えだった。逃れようのない、答えだった。
目の奥が熱くなる。唇を噛む。それでも涙が出てしまって、私はそっと顔を逸らした。
ヘンリーさんの青い瞳が、細かく揺れているのが見えた。姐さんの肩を掴んでいた手が、力を失ったようにゆっくりと下りていく。
その手が石畳のそばで止まった瞬間、路地全体がしん、と静まり返った気がした。夕暮れの最後の光が建物の輪郭を赤く縁取って、その先の空は濃い藍色に変わりかけている。人の声がしない。足音もしない。まるで、この路地だけが世界から切り取られてしまったみたいだった。
——そこへ、オズが口を開いた。
「……何を嘆いている。彼女がリッパーだったことが、そんなにショックか」
淡々とした声だった。責めているわけでも、慰めているわけでもない。ただ事実を確認するような、乾いた声。
ヘンリーさんが顔を上げた。青い瞳の奥に、感情が渦を巻いている。
「当たり前だ」
押し殺した声だった。
「こんな状況で平然としていられるわけないだろ」
「はぁ……」
オズが短くため息をついた。肩をすくめて、髪をかき上げる。そのくすんだ金色が夕暮れに紛れるように揺れて、深緑色の瞳だけがまっすぐヘンリーさんを見据えた。
「仮にも憲兵を率いる副隊長だろ。まだ真犯人を捕まえていないんだから、しっかりしろ」
沈黙が、落ちた。
ヘンリーさんが、瞬きをした。信じられないものを見るように、口が小さく開く。
「……なんだって?」
そのヘンリーさんの声と重なるように——アメリア姐さんの肩が、ビクッと揺れた。
俯いたまま、顔は見えない。それでも私には、彼女の体がわずかに強張ったのがわかった。
オズが続ける。
「アメリア・ウィットモア。お前は確かに人を殺した」
直接的な言葉だった。誤魔化しも、配慮もない。路地の石畳の上に、その言葉だけが転がった。
「——だが、お前の意思で殺したのはチャールズ・クロウだけだ」
息を、呑んだ。
「他の男たちは、お前の意思で殺していない。殺すように命じたのは——」
乾いた音が、炸裂した。
石壁に火花が散る。
「オズっ!」
体が動いていた。気づいた時には、石畳を蹴って彼に向かって踏み出していた。
けれどオズは片手でそれを制した。振り返らないまま、銃弾が飛んできた方向へ顔を向ける。
路地の奥。日が沈みかけた藍色の闇の中に、人影があった。
オズの頬に、細い赤い線が走っていた。
——かすった。
心臓が嫌な音を立てて脈打った。それでも彼は、ゆっくりと口角を上げた。
「はは。大元の登場だな……そうだろ——」
笑い声だった。けれどその瞳は、ちっとも笑っていなかった。ただ静かに、深く、路地の闇を見据えている。
「マダム・アッシュクロフト」
ヒールの音が、石畳に響いた。
コツ、コツ、コツ。
規則正しく、冷たく、それだけが夜の路地に刻まれていく。その音を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが這い上がってきた。無意識に、オズの袖を掴んでいた。
影の中からマダムが現れた。
キセルを指に挟んだまま、紫煙をゆっくりと吐き出しながら歩いてくる。栗色の切れ長の瞳が、感情を一切乗せずにオズを見据えていた。普段と何ひとつ変わらない、あの顔で。
路地全体が、凍りついた。
誰かが息を呑む。ヘンリーさんが動く気配がした。憲兵たちが一斉に体を硬くする。
それでも、マダムは足を止めない。
夕暮れが完全に落ちる直前の藍色の空の下、石畳の上で——あの人は、ただ静かに立っていた。




