43-2
霧が出ていた。
夕暮れの残光が石畳の上に薄く溶けて、街灯に火が入るには少し早い時間帯。ホーソーン地区特有の湿った空気が肌にじわりと貼りつく。人の声がしない。いつもなら娼館の入り口に灯りが点る時間のはずなのに、今夜はどこもしんと静まり返っていた。
嫌な静けさだった。
私は建物の影に身を潜めて、路地の入り口をじっと見つめていた。懐に忍ばせた短剣の柄を両手で握り直す。じわりと手汗が滲んで、革の感触がぬるくなった。
霧の向こうに、一つの人影が見えた。
くすんだ金色の髪が夜気に揺れ、ゆったりとした足取りで路地を歩いてくる。腕を組んで、まるで散歩でもしているような顔をしている——オズワルド・ウィズダムだった。
の、のんきすぎない……?
涙が滲みそうになるのを堪えながら、影の中で体を縮こませた。
オズが路地の中央に差し掛かった、その瞬間だった。
霧の中から、黒い影が滑り出た。音もなく。気配もなく。背後からオズに向かって、鋭い何かが振り下ろされる。
「——っ!」
体が動いていた。考えるより先に石畳を蹴って、影とオズの間に割り込む。金属が触れ合う硬い衝撃が腕を走って、歯を食いしばった。押し返して距離を取る。着地した石畳が、足の裏を伝って固く感じた。
「うぅっ……まさか本当に来るなんて……っ」
短剣を構えながら、涙目でそう呟いた。
「はっ! 僕の存在は目障りだからな。現れると思っていたぞ」
「もっと緊張感持って!」
背後でオズが得意げに鼻を鳴らす。声だけで胸を張っているのがわかって、叫んだ。
黒いケープに深いフードを被った人影が、霧の中に立っている。全身を覆う黒い布が夜風に静かに揺れて、フードの奥の顔だけが暗闇に沈んでいた。
攻撃を防いだ時の衝撃が、まだ腕に残っていた。短剣同士がぶつかった感触とは違う。もっと固くて、鋭くて——。
次の瞬間、リッパーが腕を持ち上げた。
ケープの袖口から覗いた手を見た瞬間、体が固まった。鱗だった。青黒い硬質な鱗に覆われた人ならざる手。その指先に、刃物など比べ物にならないほど鋭い鉤爪が生えていた。
「——ぇ、短剣……じゃないっ?」
「……やはり、鉤爪だったか」
背後でオズが静かに呟く。確認するだけの、ポツリとした声だった。こんな時に何を、と思う暇もなく、リッパーが踏み込んできた。
「オズっ、は、離れてて!」
叫びながら身を低くして、振り下ろされた鉤爪を横に飛んで躱した。着地と同時に踏み込んで短剣を突き入れようとしたが、腕でいなされて弾き飛ばされる。速い。対人なら引けを取らない自信はあった。でも目の前の相手は人間の動きをしていない。腕の振りも体重移動も、何もかもが獣のそれだった。
——そこへ、足音が響いた。
路地の入り口から白い軍服が現れる。ヘンリー・カルヴァートが先頭に立って、踏み込んできた。
「二人とも、おとなしく……っ!」
その言葉が途中で止まる。青い瞳がこの状況を映して大きく見開かれ、数秒だけ彼は石になった。
「——総員、あの者を捕えろっ!」
鋭い指示が飛ぶ。憲兵たちが石畳を蹴ってリッパーへ走り出した——その瞬間、乾いた音が複数重なって夜の路地に弾けた。
銃声だった。
建物の窓、路地の影、石壁の角。複数の方角から銃口が憲兵たちへ火を噴いて、一人が腕を押さえてよろめき、別の一人が膝をついた。
「ヘンリー! 手錠!」
「! 何をっ」
オズの声が飛ぶ。ヘンリーは銃弾を防ぎながらオズを一瞥して、一拍だけ躊躇った。その迷いが顔に出ていた。それでも懐に手を入れて、手錠を投げた。
弧を描く手錠が霧の中を飛ぶ。オズが手を伸ばした——その軌道を、銃弾が掠めた。
手錠が弾かれて、石畳の奥へ転がっていく。
「くそっ」
初めて聞く、オズの苦い声だった。眉間に皺を寄せて歯を噛む横顔が視界の端に映った。
ヘンリーも顔をこわばらせた——その瞬間、銃弾がヘンリーの腕を貫いた。
「ぐっ」
くぐもった声が漏れる。ヘンリーが腕を押さえてよろめいた。
——その瞬間だった。
獣のように動き回っていたリッパーが、ぴたりと止まった。フードの奥がヘンリーの方へ向く。全ての動きが完全に止まっている。
私は戸惑った。でも考えている時間はなかった。石畳を蹴ってリッパーの背後から飛びかかり、両腕を取って地面に組み伏せた。鱗に覆われた腕が、信じられないくらい抵抗なく石畳に押しつけられる。
「マティア!」
オズが叫ぶと同時に、何かが飛んできた。反射的に片手を伸ばして掴む。
「——て、手錠?」
なんで……。
さっき弾かれて転がっていったはずの手錠が、なぜかオズの手から飛んできた。理解が追いつかない。でも今は考えている場合じゃない。受け取った手錠をリッパーの両手首にはめると、かちりと固い音が鳴った。
しばらくして、鱗が溶けるように消えていった。青黒い硬質な鱗がみるみると薄くなって、普通の人間の肌に戻っていく。鉤爪が縮んで、細い指先に変わった。
私は脱力して、呼吸を整えた。肺が酸素を求めて痛い。腕が震えている。
「大丈夫か?」
オズが駆け寄ってきた。深緑色の瞳がこちらを見下ろしている。いつも飄々としているくせに、今だけはほんの少しだけ眉が下がっていた。
「大丈夫」
そう答えると、ふっと息が楽になった。彼の顔を見たら、緊張の糸が少しだけ緩んだ。
遠くでまだ銃声が響いている。でも今は、目の前のことだけを見なければいけない。
ゆっくりと、リッパーに向き直った。意を決して、フードに手をかける。
「……ごめんね」
声が出た。自分でも驚くくらい、静かな声だった。
フードをめくる。霧に滲む夕暮れの残光が、その顔を照らした。
想像していた通りだった。悲しげに目を伏せる。胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
「……やっぱり、っていうことは知っていたのね」
聞き覚えのある声が鼓膜を揺らした。何度も聞いた声だった。おやすみと言ってくれた声。名前を呼んでくれた声。
喉の奥で何かが引っかかる。涙が滲む。それでも視線を逸らさなかった。
「……アメリア姐さん」
震える声で、その名前を呼んだ。
組み伏せた先に、姐さんがいた。金色の滑らかな髪が乱れて、藍色のドレスが石畳に広がっている。弱々しげに微笑むその顔は、痛々しくて——それでも、どうしようもなく愛おしかった。
「……マティア」
姐さんが柔らかい声で私の名前を呼んだ。
けれど、その金色の瞳には、一切の光が宿っていなかった。




